SSブログ

松根城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_6734.JPG←三ノ丸先端の大堀切
(2005年1月訪城)
 松根城は、加越国境城砦群の一である。元々は南北朝時代の1369年、越中を本拠として室町幕府に抗した桃井直常の子桃井直和がこの地に陣し、幕府方の吉見左馬助らが攻略したと言われる。また文明年間(1469~87年)には、一向一揆の首領の一人、洲崎兵庫(慶覚)が陣を敷き、その後戦国時代にかけて、一向衆が本格的な城郭に改修したと考えられる。戦国末期には織田信長の勢力がこの地を圧し、松根城も織田氏の属城となった。信長の本能寺での横死後、後継者の地位をめぐって羽柴秀吉と織田家重臣の柴田勝家が対立し、秀吉は賤ヶ岳で勝家を破り、北の庄城に攻め滅ぼして、信長の後継者の地位を固めた。同じく織田家家臣であった越中富山城主佐々成政は、秀吉に敵対し、秀吉方に付いた加賀能登を領する金沢城主前田利家との間に軍事的緊張が高まると、両陣営は加越国境に多くの城を築いて対峙した。加賀と越中を繋ぐ主要街道は4つあり、成政は末森城攻撃に兵数を割くため、加越国境の城郭群を大改修して防御力を増強し、国境の守備兵不足を補強した。一方の利家は、秀吉から「成政が山を取ったからといって軽率な行動は慎め。軽率に動いて失敗したら厳罰に処す」との厳命が下されている。そのためか、佐々方の城砦は規模が大きく、縄張りも高度な技術を駆使しているが、前田方の城砦は小規模で、シンプルな縄張りのものが多い。松根城は、小原越(小原道)を押さえ、前田方の切山城と対峙する城であったと推測されている(学研パブリッシング『軍事分析 戦国の城』より)。1584年、佐々成政は大軍を率いて能登に侵攻し、要衝の末森城を攻囲した。この時成政は、家臣の杉山隆重を松根城に置いて守らせた。佐々勢は末森合戦で攻めきれず、越中に撤退すると、前田利家は重臣村井長頼に松根城・朝日山城を攻撃させ、松根城は攻め落とされた。翌年、秀吉自ら越中に大軍を率いて佐々討伐を行うと、成政は降伏した。越中は前田利家に与えられ、戦略的価値を失った松根城は廃城になったと思われる。また発掘調査の結果、城域南西端の大堀切によって小原越が切断されていることが判明しており、城が街道を戦時封鎖していることを遺構で確認できた初めての事例とのことである。

 松根城は、小田原北条氏が箱根周辺に築いた城と同様に、松根峠を越える小原道を城内に取り込んだ城である。その目的は明瞭で、成政が加賀能登に侵攻するための街道を防衛し、かつ兵站線と万一の時の退路の確保を目的としたものであったろう。縄張りも戦国最末期の山城に相応しく技巧的で、各所の動線は屈曲し、大手虎口は二重枡形となり、曲輪外周に横堀を構えて防御している。そして要所を堀切で分断している。特に北東端と南西端は大規模な堀切を穿って、敵の接近を阻んでいる。こうした防御構造は巧妙である一方、各曲輪の削平は甘く、主郭も含めて起伏がある。その点では、居住性は考えられておらず、建物などもなかったと思われる。松根城は、城としては中規模で、峠の守りを固める陣城的なものに近かったようだ。馬場曲輪まで車で行けるので、訪城は厳冬期でない限り楽である。
外周を固める横堀→IMG_6713.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.616217/136.783422/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 4

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント