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和泉田城(福島県南会津町) [古城めぐり(福島)]

DSC01954.JPG←主郭背後の堀切
 和泉田城は、河原崎城とも呼ばれ、奥会津に侵攻した伊達政宗によって撫で斬りにされた城である。築城時期は不明であるが、戦国末期の当城最後の城主は伊南駒寄城主河原田盛次の家臣五十嵐和泉守道正で、道正は横田中丸城主山ノ内氏勝の妹が河原田氏に嫁いだ際に、付家老として山内氏より遣わされたと言う。伊南郷の北の押さえを任されていたと推測される。1589年、摺上原の戦いで奥州の有力大名葦名氏を滅ぼした伊達政宗は、奥会津制圧の為、重臣の原田左馬助宗時に軍勢を率いて侵攻させた。和泉田城を囲んだ伊達勢は、田島鴫山城主長沼盛秀の軍兵を加えた4000の兵であったと言われ、対する道正の籠城兵はわずか300人程であった。当初、攻めあぐねて多数の兵を失った伊達勢であったが、城の西側の山から多数の鉄砲により攻撃して多数の城兵を討ち、遂に落城させた。残る城兵200人を残らず撫で斬りにし、帰途の道中にその首を掛け並べたと伝えられている。勝った伊達勢も、大将の屋代勘解由、梅津籐兵衛ら800人の死者を出す、凄惨な戦いであったと言う。城はそのまま廃城になったと思われる。

 和泉田城は、比高173mの山上に築かれた典型的な連郭式山城で、主郭の前面を数段の段曲輪・腰曲輪で防御を固め、主郭背後には堀切と曲輪を交互に連ねている。主郭は小じんまりとしており、大した広さはなく、内部は2段の平場に分かれていた様である。主郭背後の堀切が最も規模が大きいが、それでも深さ3~4m程であろう。その先にニノ郭・三ノ郭が連なり、更にその先の主郭より高い位置にある小峰にも曲輪があり、物見曲輪だったのではないかと想像される。その南に伸びる尾根にも堀切があり、城域は南北に長かった様だが、城全体は大きいものではなく、山麓の比高30m程の台地上に築かれた堂平と呼ばれる根古屋に対する詰城として機能したと思われる。この構成は河原田氏の本城駒寄城によく似ており、同じ築城構想で築かれたものと思われる。山上からは、伊南川対岸の梁取城の他、川沿いの平地が手に取るように見え、城下の敵の動きが筒抜けだったことがわかる。この程度の小城で、味方の10倍以上の敵と戦えた所以であろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.276682/139.495457/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世山城
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