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三国湊城(福井県坂井市) [古城めぐり(福井)]

IMG_6894.JPG←城址碑の建つ城跡
(2005年2月訪城)
 三国湊城は、千手寺城、湊ノ城とも呼ばれ、南北朝時代の南朝方の古城である。新田義貞の重臣で新田四天王の一人、畑六郎左衛門時能が築いた城で、中世北国の重要な通商路であった三国湊を押さえる拠点として築いたものと考えられる。新田一族は、元々の本拠地上野から越後にまで分布しており、建武の新政下で越後守護でもあった義貞は、越後を後方支援の基地としていたらしい。三国湊を押さえれば、海路を通して直接越後の一族との連絡ができ、兵員や兵糧などの補充を受けることができたと考えられる。1338年の南朝方の総帥新田義貞の死後しばらくして、義貞の弟脇屋義助は福井平野に於いて一斉に反転攻勢に出た。畑六郎左衛門時能は三国湊城から、由良越前守光氏は西方寺城から、そして堀口氏政は亥山城から出立して諸城を落とし、多方面から一斉に越前黒丸城に拠る北朝方の斯波高経の軍勢に攻め掛かった。高経はこの攻勢に堪らず、黒丸城を放棄して加賀に落ち延びた。しかし高経はすぐに反転攻勢に出て越前府中を奪還し、畑時能は鷹之巣城に籠って抗戦を続けたと、太平記に記されている。戦国時代には越前の戦国大名朝倉氏の支城となり、家臣の桜井新左衛門の居城となっていたと伝えられている。

 三国湊城は、太平記には、「僅か23人で籠った平城」と書かれ、現在の観音堂付近に築かれていたと推測されている。勿論、23人というのは太平記によくある誇張で、実数ではあるまい。かつてここには天台宗の寺院千手寺があり、寺を城塞化したしたものと考えられる。しかし地勢としては背後に丘陵地を負っており、この丘陵上の方が城を築くには適地だったと思うが、どうであろうか。何れにしても市街化で遺構はなく、城址の標柱が観音堂前に建っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.210606/136.153983/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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