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三木城(兵庫県三木市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC02692.JPG←本丸~二ノ丸間の空堀跡
 三木城は、羽柴秀吉の長期包囲戦「三木の干殺し」で有名な別所長治の居城である。別所氏は、播磨守護で三管四職に名を連ねる赤松氏の庶流で、嘉吉の乱後、宗家の赤松氏が衰退して播磨国内が群雄割拠の状況になった後、東播磨八郡を支配した大勢力であった。三木城は、明応年間(1492~1501年)に別所則治が築いた。則治は、浦上氏らに追放された置塩城主赤松政則を援助して再び播磨に入れるなどして、赤松家臣団の中で浦上氏に次ぐ実力者となった。天文年間(1532~55年)には、出雲の尼子晴久や三好長慶の攻撃を受けたが、三木城は落城を免れた。戦国時代後期に、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、室町幕府を名目上再興して天下の権を握ると、別所氏は織田氏に気脈を通じた。5代目城主別所長治は、信長の命で毛利攻めの先鋒とされ、信長の部将羽柴秀吉の麾下となったが、間もなく信長から離反した。秀吉は、城が力攻めでは落とし難く、また来るべき毛利との戦いに備えて兵の損耗を防ぐため、長治の拠る三木城を兵糧攻めにした。この長期包囲戦は1年8ヶ月の長きにわたり、1580年1月17日、別所長治以下一族が自害する代わりに城兵を助ける条件で、遂に開城した。その後、三木城には秀吉の家臣杉原氏や中川秀政が城主となったが、関ヶ原合戦後は姫路城主池田輝政の持ち城となり、元和の一国一城令で廃城となった。

 三木城は、美嚢川南岸の比高15m程の段丘上に築かれた崖端城である。城内は住宅地などの市街化が激しいが、城の地形がよく残っている。本丸は上の丸公園となっており、西側に矢倉台や井戸跡が残っている。その南の市立図書館や上の丸庁舎が建っている場所が二ノ丸で、本丸との間の道路は空堀跡であることが明らかである。この下に大手門があったらしい。また東側の新城部分の空堀や腰曲輪も、かなり改変を受けながらも地形的には残っている。南側外郭に当たる鷹ノ尾の出城の外側にも、外堀跡がはっきりと残っている。ざっと見て回っただけでも市街化の中にも城の名残を漂わせており、これ以上の改変がないよう保護してもらいたいものである。
外郭の外堀跡→DSC02738.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.799894/134.987791/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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