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城山城(兵庫県たつの市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC03257.JPG←主郭跡
 城山(きのやま)城は、嘉吉の乱の際に赤松一族が最後を迎えた城である。中世城郭としての城山城は、1352年に赤松円心の3男で兄範資の死後に家督を継いだ赤松則祐が、本城の白旗城を守る外郭として築いたと言われている。1441年、恐怖政治を敷いた専制君主の6代将軍足利義教に追い詰められた赤松満祐は、京都の自邸に将軍義教を招いて結城合戦の祝宴を催し、その席上で将軍を暗殺した。列席した諸大名が狼狽して成すところを知らぬという状況の中、満祐は上京していた軍勢を率いて本拠の播磨に戻り、書写坂本城を拠点として幕府に対抗した。幕府軍は、山名持豊を実質的な総大将とした討伐軍を繰り出し、赤松勢は善戦したものの敗れ、満祐父子は坂本城を捨てて城山城に籠城した。しかし赤松勢には援軍もなく、脱落者が相次ぎ、山名持豊の軍勢に攻囲されて、満祐は自刃し、赤松宗家は滅亡した。その後、城は放棄されていたが、1538年に出雲の月山富田城主尼子晴久が播磨に侵攻すると、赤松政村は置塩城を捨てて淡路に逃れ、播磨のほぼ全域が尼子氏の支配下となった。この時、晴久は城山城を再興し、3年間にわたって播磨支配の拠点とした。1540年に尼子勢が播磨から撤退すると、城山城は再び廃城となった。

 これが中世の城山城の歴史であるが、この城にはもう一つの側面があり、大和朝廷の築いた古代山城でもあった。663年、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗北した朝廷は、唐・新羅の侵攻に備えて、九州から瀬戸内海一帯に城砦群を築いた。これが古代山城で、朝鮮式山城とも呼ばれる。城山城もその一つで、従って城山城は古代山城の遺構と中世城郭の遺構が混在している。

 城山城は、標高458m、比高418mの亀山(きのやま)の山頂部一帯に築かれている。さすがに比高400m超ともなるとその峻険さはダテではなく、大手とされる馬立地区からの登り道を登って、主峰のある尾根筋に到達するまででも30分以上を要する。尾根の西側には亀の池という大きな池があり、こんな山上に水をたたえる神秘的な情景が広がっている。城山城の遺構は、広大な城域に散在しているが、中心的曲輪がはっきりしない。亀山は大きく3つの峰から構成されているが、西山頂と東山頂の谷間に曲輪群が展開し、ここが主郭だったようである。主郭の東の山頂は自然地形であるが、周囲に多数の段曲輪群を伴っており、特に東斜面の段曲輪には土塁や建物礎石が残っている。西山頂の西側下方には、規模の大きな石塁があり、古代山城の遺構であるらしい。いわゆる神籠石であろう。この石塁は沢の下に築かれており、水場の確保が目的だったように思われる。また北山頂部の北の尾根筋にわずかな堀切や横堀がある。北山頂部から西側に降って行くと、古代山城の門跡の礎石が残っている。これらの遺構の中でどこまでが中世山城の遺構かはっきりしないが、中世城郭としては俄造りの印象が強い。尼子氏が播磨支配の拠点としたというのは、遺構からするとやや疑問に思う。
堀切跡→DSC03212.JPG
DSC03338.JPG←石塁跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.894318/134.527153/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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