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鶴城(兵庫県豊岡市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC05150.JPG←搦手のL字状土塁の虎口
 鶴城は、但馬守護山名氏の重臣で山名四天王の一、田結庄氏の居城である。田結庄氏は、南北朝期に足利家の重臣であった山名時氏が但馬に進出した時に、山名氏に服属した土着豪族であったと考えられる。鶴城は、永享年間(1429~41年)に山名宗全が築城したとされ、その後、田結庄氏を入れて城を守らせたものだろう。応仁の大乱で山名氏の守護権力が衰退し、更にその後の播磨をめぐる赤松氏との抗争で山名政豊が敗北して但馬に撤収すると、山名四天王の筆頭で但馬守護代だった楽々前城主垣屋続成は主家山名氏と対立し、1505年には続成は山名氏の居城此隅山城を攻撃した。この時、田結庄氏は山名方に付いて戦った。その後、山名氏の勢力が更に衰微すると、但馬国内は四天王が群雄割拠する状況となり、更に東西から織田氏・毛利氏の二大勢力が迫ってくると、但馬の国人衆はその去就に大いに迷うこととなった。その結果、織田氏との連繋を主張する田結庄派と、毛利氏との連繋を主張する垣屋派とに分かれて抗争した。1575年、田結庄是義は野田合戦で垣屋豊継らに攻められて、菩提寺の正福寺で自刃し、その後鶴城は垣屋豊継の支配するところとなった。しかしそれから間もなく、1580年に織田信長の第2次但馬征伐で但馬は制圧された。鶴城の最後は定かではないが、織田氏の但馬制圧後、程無くも廃城になったと考えられる。

 鶴城は、円山川東岸の愛宕山と呼ばれる比高100m程の山上に築かれており、現在は「愛宕山みはらしの森」という公園となって整備されている。適度な公園化で遺構は確認しやすいが、同じ山名四天王でも垣屋氏の楽々前城と比べると随分と古風で小規模な城で、垣屋氏との勢力差を感じさせる。山頂の主郭を中心に南尾根と西尾根に曲輪を連ねた比較的単純な連郭式の縄張りである。曲輪群は削平が明確で広いが、堀切は比較的小規模である。東斜面には畝状竪堀もあるが、これまた楽々前城と比べるとかなり小規模で、かなり確認しにくい。遺構が比較的素晴らしいのは西尾根の曲輪群で、北側に土塁を築いて守りを固め、搦手虎口がL字状の土塁で普請されて枡形を形成するなど、戦国後期の築城技術も垣間見られる。畝状竪堀・堀切・土塁は、東側から北側にかけて集中配置されており、この方面の防御に重点を置いていたことがわかる。とは言うものの、比高も低い丘陵地で峻険さに乏しく、自ずから防御力に限界があったことだろう。藪漕ぎをしなくて済むのはありがたいが、楽々前城の壮大さと比べるとやや物足りなさを感じた。
小規模な畝状竪堀→DSC05095.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.556530/134.829422/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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