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八木城(兵庫県養父市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC05622.JPG←本丸の石垣
 八木城は、但馬守護山名氏の重臣で山名四天王の一、八木氏の歴代の居城である。この地には元々、源義家の重臣閉伊四郎頼国が居を構え、山上に八木土城を構えていた。1194~1200年頃、日下部氏を祖とする朝倉高清は、閉伊十郎行光を攻め滅ぼし、高清の次男安高が八木荘に入部して、八木氏を称した。八木氏は、南北朝期から室町期にかけて次第に興隆し、但馬守護山名氏に服属して山名四天王の1人として家中に重きを成した。応仁の乱後、山名氏の守護権力は衰退し、戦国時代に入ると山名氏の勢力は更に弱まり、但馬国内は垣屋氏・太田垣氏・八木氏・田結庄氏ら山名四天王が自立の動きを見せ、群雄割拠の状況となった。戦国後期になると、織田信長が勢力を伸ばし、その部将羽柴秀吉が中国平定に出陣すると、但馬の国人衆はその去就に大いに迷うこととなった。そして1577年と1580年と、二度にわたる信長の但馬征伐が行われ、八木城も1580年に羽柴秀吉の軍に攻められて、八木但馬守豊信は降服した。そして秀吉の下で因幡侵攻作戦に参加し、若桜鬼ヶ城の守備を命ぜられて八木城を去った。その後の1585年、別所重棟が八木城主となって入部した。重棟の子吉治は1600年の関ヶ原の戦いで西軍に属した為除封され、八木城は廃城となった。

 八木城は、標高409mにそびえる八木土城と、その東の稜線上に位置する標高330mのいわゆる「八木城」と2つ存在している。現在残る八木城は総石垣の本丸を有し、明らかに別所氏時代に改修を受けているが、最初にいつ築かれたかは定かではない。八木氏時代に、既に山上の八木土城から城を移されていたとも言われるが、はっきりしない。或いは出丸として稜線上に築かれた砦を、別所氏時代に主城として取り立てたものかもしれない。ここでは石垣の残る八木城に付いて記載し、八木土城については別項で取り扱う。

 八木城は、比高220mの山上にそびえており、大手筋に当たる南東尾根には多数の段曲輪群を構えている。ここには小規模な石積みが多数散見され、後世に積まれた可能性もあるが、二ノ丸の石垣と同じ積み方であるので遺構である可能性も高く、往時は総石垣の城だった可能性がある。本丸は前述の通り周囲を石垣で囲まれているが、石垣は崩落が進んでおり、今後の速やかな整備が必要であろう。本丸内は西側に石塁を積み、後部に櫓台を設けている。この櫓台は、天守台と言うほど大きくはないので、小型の二重櫓程度のものが置かれたのだろう。本丸周囲には腰曲輪が取り巻き、特に西側には石垣の残る帯曲輪が数段残っている。本丸手前の二ノ丸や三ノ丸、その他の段曲輪は、一部に石垣が残るものの中世山城に残る段曲輪そのままである。本丸の背後の尾根筋には、やや規模の大きな堀切があり、これも中世城郭的遺構である。虎口もあまり発達せず、基本的に中世の城の縄張りをベースとした城だったようだ。ただ同じ中世の城でも、楽々前城鶴城等と比べて、技巧性に乏しい縄張りであることは否めない。
大手筋の段曲輪群に残る石垣→DSC05490.JPG
DSC05607.JPG←本丸内の石塁と櫓台
堀切→DSC05636.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.389123/134.711375/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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