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石橋山合戦関連史跡(神奈川県湯河原町・真鶴町) [その他の史跡巡り]

 湯河原の山中と真鶴の海辺には、源頼朝挙兵の際の石橋山合戦に関する史跡が残っている。平治の乱で父源義朝が敗死し、池禅尼の助命嘆願で一命を救われて伊豆蛭ヶ小島に配流となっていた源頼朝は、1180年、平家打倒の兵を挙げた。その経緯は石橋山古戦場の項に記載する。石橋山で大敗した頼朝は、山中を僅かな供を連れて逃げ隠れ、命からがら安房へと落ち延びた。その後頼朝は、関東諸豪の兵を糾合して関東を席巻し、鎌倉に入った。そして後に鎌倉幕府を開き、武家政権を名実ともに樹立することになるのである。

<土肥大杉>
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 石橋山で大敗した頼朝は、僅かな配下と共に土肥山中の杉山に逃れた。山中を捜索する大庭景親の手勢に追い詰められた頼朝主従は、大杉の空洞で息を潜めていたが、敵将の一人梶原景時はそれと知りつつ機知を以って頼朝を庇い、その命を救ったと言う。
 土肥大杉は、県道75号線から山道を入った深い山林の中にある。大杉まで歩いて10分程掛かる。大杉は大正6年の台風で倒れてしまい、現在はその跡地に大きな石碑が建っているだけであるが、よくこんな山中の杉が長い間語り継がれてきたものだと思う。

 場所:http://maps.gsi.go.jp#16/35.185636/139.063986/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<しとどの窟>
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 しとどの窟は、史跡名称としては「土肥椙山巌窟(伝源頼朝隠潜地)」と呼ばれ、石橋山で大敗した頼朝が隠れ潜んだ場所と言われている。8月23日に石橋山合戦で敗北し、24日夜明けに椙山山中の岩窟に潜んで九死に一生を得たと言う。その夜は箱根権現の永実坊に宿り再び椙山に戻って3日間椙山山中に隠れ、28日に舞鶴から安房に逃れたと言う。
 しとどの窟は、山中にある水の滴り落ちる大きな窟で、窟の中には観音像が立ち並び、ここまで下ってくる道は参道として整備されている。
 尚、ゼンリンの地図では表示されている場所が間違っているので、注意が必要。城山隧道をくぐり抜けて、直ぐ右に曲がって細い参道を降りていくのが正解。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.163407/139.076046/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<謡坂>
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 椙山山中を彷徨い逃れた頼朝は、岩海岸から安房へ向かって船出したが、その途中、無事を祝い再起を願って土肥実平が謡い踊ったと言われている。謡坂の地名は、それに由来すると言う。
 現在は住宅地の中の、何の変哲もない坂道であるが、石碑が建っていて由来を伝えている。ここを降った先の海岸が、頼朝が船出した海岸である。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.159512/139.141062/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<頼朝船出の浜>
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 頼朝船出の浜は、頼朝が再起を図るため安房に向かって船出した浜と言われている。民家の横に石碑が建っており、その石碑には「源頼朝開帆處」と刻まれている。
DSC06060.JPG←頼朝が船出した岩海岸

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.161179/139.139925/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:古戦場
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