網代城(静岡県熱海市) [古城めぐり(静岡)]
←教安寺の建つ湯ヶ谷
網代城は、肥後菊池氏の一族聞間七郎太夫が築いた伝えられる城である。菊池氏は、南北朝時代に河内の楠木氏と並んで終始一貫して南朝方に付いて戦った一族で、その事績は頼山陽をして、「翠楠(楠木氏)必ずしも黄花(菊池氏)に勝らず」(南朝の忠臣と讃えられる楠木氏は必ずしも菊池氏に優っていた訳ではない、即ち菊池氏も楠木氏に負けず劣らず一貫して南朝に貢献した一族であった、と言う意味)と言わしめた一族であった。1338年、菊池武敏の一族聞間七郎太夫は、征東将軍に任ぜられた義良親王(後の後村上天皇)に従って北畠親房らと共に伊勢大湊より奥州へ向う途中、暴風に遭って遠江へ漂着した。その後、伊東氏を頼って伊豆に入り、網代を受領して網代城を構えたと言われている。その後の歴史は定かではないが、戦国時代には小田原北条氏の家臣岡本善左エ門が城主であったと言われ、1589年3月に安房の里見義頼が網代城を攻めたが果せなかったとされている。
網代城は、現在教安寺が建っている場所にあり、この地は湯ヶ谷と呼ばれ、三方を山に囲まれた谷戸で、鎌倉時代頃に城館がよく置かれた地形である。教安寺の門前に網代城址の石碑が建っているだけで、地勢以外に明確な遺構は見当たらない。「静岡県の中世城館跡」によれば石組みがわずかに残るとされているが、よくわからなかった。ただ、九州から遠く離れた東国に菊池一族の足跡が残されていると言うのは、中々興味深い。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.045554/139.091088/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
網代城は、肥後菊池氏の一族聞間七郎太夫が築いた伝えられる城である。菊池氏は、南北朝時代に河内の楠木氏と並んで終始一貫して南朝方に付いて戦った一族で、その事績は頼山陽をして、「翠楠(楠木氏)必ずしも黄花(菊池氏)に勝らず」(南朝の忠臣と讃えられる楠木氏は必ずしも菊池氏に優っていた訳ではない、即ち菊池氏も楠木氏に負けず劣らず一貫して南朝に貢献した一族であった、と言う意味)と言わしめた一族であった。1338年、菊池武敏の一族聞間七郎太夫は、征東将軍に任ぜられた義良親王(後の後村上天皇)に従って北畠親房らと共に伊勢大湊より奥州へ向う途中、暴風に遭って遠江へ漂着した。その後、伊東氏を頼って伊豆に入り、網代を受領して網代城を構えたと言われている。その後の歴史は定かではないが、戦国時代には小田原北条氏の家臣岡本善左エ門が城主であったと言われ、1589年3月に安房の里見義頼が網代城を攻めたが果せなかったとされている。
網代城は、現在教安寺が建っている場所にあり、この地は湯ヶ谷と呼ばれ、三方を山に囲まれた谷戸で、鎌倉時代頃に城館がよく置かれた地形である。教安寺の門前に網代城址の石碑が建っているだけで、地勢以外に明確な遺構は見当たらない。「静岡県の中世城館跡」によれば石組みがわずかに残るとされているが、よくわからなかった。ただ、九州から遠く離れた東国に菊池一族の足跡が残されていると言うのは、中々興味深い。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.045554/139.091088/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
網代・多賀の港はよく訪れますが、
いつも静かでで良港なのがわかります。
一方、平地がすくなく、昔は山路が幹線だったということで、
海に出て行くしかなかった事が想像できます。
最近「伊豆水軍」という本を読んでいますが、
網代も北条時代の伊豆水軍の主要拠点だったようです。
by evergreen (2012-05-05 17:05)
>evergreenさん
実は昨冬は、北条の伊豆の城の攻略が大目標でした。
北条水軍の城にもたくさん行きましたので、
北条氏にとっての伊豆の戦略的な位置付けが
何となくわかったような気がします。
by アテンザ23Z (2012-05-06 01:51)