深根城(静岡県下田市) [古城めぐり(静岡)]
←台地入口の虎口跡?
深根城は、堀越公方の重臣関戸播磨守吉信の居城と言われている。1491年、足利政知の死後にその遺児茶々丸は弟を殺して自立し、堀越御所に家督を巡る争いが生じると、駿河今川家の客将で興国寺城主伊勢宗瑞(北条早雲)は1493年に伊豆に侵攻した。宗瑞は瞬く間に足利茶々丸を滅ぼし、伊豆平定戦を続けたが、多くの伊豆の諸豪が宗瑞に臣従する中、関戸吉信は深根城に立て籠もってただ一人最後まで抵抗した。しかし衆寡敵せず落城し、宗瑞は抵抗した関戸方の城兵を老幼婦女子に至るまで悉く首を刎ねて晒したと言われる。宗瑞の伊豆平定戦の中では、最も凄惨な戦いの場となった。この戦いの後、深根城は廃城になったと思われる。
深根城は、稲生沢川の南岸に迫る山裾の、比高50m程の台地上に築かれた城である。この台地上は現在数軒の民家の敷地と畑になっており、あまり深く遺構を探索することはできない。また当然改変も多く、遺構ははっきりしない。それでも民家脇に土塁の名残らしき土檀があり、南側の敷地入口は枡形虎口の名残の様な方形に近い空間が残る。また、台地上に登ってくる車道沿いにも木戸口土塁の名残の様な地形があり、台地斜面に段々の平場も遠目に確認できる。しかしいずれも後世の改変の可能性が強く、何とも言いかねる状況である。いずれにしても城址が民家の敷地であるので、あまり勝手に歩き回るのは慎んだ方が良いだろう。
尚、深根城から西方に300m程の山中には、足利茶々丸のものとされる墓が残っている。山道の入口に標柱が建つ以外は明確な標識がないので、場所がかなりわかりづらかった。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.719885/138.937208/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
【足利茶々丸の墓】http://maps.gsi.go.jp/#16/34.719604/138.933824/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
深根城は、堀越公方の重臣関戸播磨守吉信の居城と言われている。1491年、足利政知の死後にその遺児茶々丸は弟を殺して自立し、堀越御所に家督を巡る争いが生じると、駿河今川家の客将で興国寺城主伊勢宗瑞(北条早雲)は1493年に伊豆に侵攻した。宗瑞は瞬く間に足利茶々丸を滅ぼし、伊豆平定戦を続けたが、多くの伊豆の諸豪が宗瑞に臣従する中、関戸吉信は深根城に立て籠もってただ一人最後まで抵抗した。しかし衆寡敵せず落城し、宗瑞は抵抗した関戸方の城兵を老幼婦女子に至るまで悉く首を刎ねて晒したと言われる。宗瑞の伊豆平定戦の中では、最も凄惨な戦いの場となった。この戦いの後、深根城は廃城になったと思われる。
深根城は、稲生沢川の南岸に迫る山裾の、比高50m程の台地上に築かれた城である。この台地上は現在数軒の民家の敷地と畑になっており、あまり深く遺構を探索することはできない。また当然改変も多く、遺構ははっきりしない。それでも民家脇に土塁の名残らしき土檀があり、南側の敷地入口は枡形虎口の名残の様な方形に近い空間が残る。また、台地上に登ってくる車道沿いにも木戸口土塁の名残の様な地形があり、台地斜面に段々の平場も遠目に確認できる。しかしいずれも後世の改変の可能性が強く、何とも言いかねる状況である。いずれにしても城址が民家の敷地であるので、あまり勝手に歩き回るのは慎んだ方が良いだろう。
尚、深根城から西方に300m程の山中には、足利茶々丸のものとされる墓が残っている。山道の入口に標柱が建つ以外は明確な標識がないので、場所がかなりわかりづらかった。
足利茶々丸の墓→
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.719885/138.937208/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
【足利茶々丸の墓】http://maps.gsi.go.jp/#16/34.719604/138.933824/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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