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下田城(静岡県下田市) [古城めぐり(静岡)]

DSC08798.JPG←長大な畝堀
 下田城は、小田原北条氏が築いた海賊城である。その創築は明らかではないが、北条氏初代伊勢宗瑞(北条早雲)の時、朝比奈孫太郎が下田を領して城砦を築いたと言われている。下田城がはっきりと歴史に姿をあらわすのは、小田原の役の時である。天下統一事業を進める豊臣秀吉との間に緊張感が増してきた1588年、北条氏直は、海の防衛拠点として下田城に重臣の伊豆衆筆頭清水上野介康英を入れ、箱根の入口を押さえる山中城と共に、城を大改修した。1589年12月から翌年にかけて、雲見上の山城主高橋丹波守や妻良の村田新左衛門など南伊豆の武士が入城し、小田原からは江戸摂津守・高橋郷左衛門尉が援軍として派遣されて、臨戦態勢が整えられた。1590年、上野名胡桃城奪取を契機として、遂に豊臣秀吉の北条征伐が開始された。3月、清水湊に集結した長宗我部元親・脇坂安治らの率いる豊臣方水軍1万余の大船団は、西伊豆を制圧しながら下田城に迫った。清水康英は、わずか600余の手勢で奮闘し、50余日に渡って籠城戦を続けた。しかし衆寡敵せず、開城勧告を受け入れて4月下旬に城を豊臣方に開け渡した。北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入部すると、下田城には徳川氏譜代の戸田忠次が5千石で封ぜられた。関ヶ原合戦後の1601年に戸田氏が三河田原城へ移封となると、下田城は天領となって下田町奉行の支配に属し、城としての役目を終えた。

 下田城は、北条氏が伊豆半島沿岸に築いた海賊城の中では出色で、かなり広い城域を持ち、遺構も雄大である。基本的には、海上にせり出した海抜70m程の半島上の細尾根に展開した城で、各曲輪は細長く、居住性があるほどの面積を有していない。しかし主要部の曲輪外周を、長大な横堀(畝堀)で取り囲み、要所を堀切で分断した、小田原北条氏らしい見事な城となっている。殊にニノ郭南の堀切は、横堀がそのままニノ郭を取り囲んだ形となっており、雄大で見応えがある。頂部には本丸と天守台と伝えられる土壇があり、その北麓の平坦地は城主居館が置かれていた曲輪であったとされる。城址の北半分は下田公園となっている為、一部改変を受けている。北側の公園部分と南側の遺構部分で、全く景観の異なる二面性を持つ城址公園で、公園部分は改変が多く遺構も不分明であるが、南側部分は遺構がほとんど完存している様である。20倍近い敵と互角に渡り合った海賊城として、必見である。
ニノ郭先端の堀切→DSC08865.JPG
DSC08705.JPG←城主居館跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.669195/138.945625/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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