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柏久保城(静岡県伊豆市) [古城めぐり(静岡)]

DSC09794.JPG←ニノ郭と土塁
 柏久保城は、小田原北条氏の始祖伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆平定戦の際に、狩野城攻略の足掛かりとした城である。元々は、狩野城を本拠とした伊豆の豪族狩野氏が、鎌倉時代の頃に出城として築いたと伝えられている。狩野氏の事績については、狩野城の項に記載する。1493年、堀越公方足利茶々丸を攻め滅ぼした興国寺城主伊勢宗瑞は、そのまま伊豆平定戦を推し進めたが、狩野氏は一族の伊東氏と共に頑強に抵抗した。この時、狩野城攻略の橋頭堡とする為、宗瑞は柏久保城を北側の急崖(新九郎谷と呼ばれる)から急襲して攻め落とした。1497年4月、柏久保城を奪還すべく狩野勢が攻め寄せ激戦が展開されたが、宗瑞側に付いた大見三人衆(佐藤藤左衛門・梅原六郎左衛門・佐藤七郎左衛門)の働きによって、宗瑞は勝利を得たと言う。その後、狩野道一が宗瑞に降り、柏久保城の、狩野城の攻略拠点としての役目は終わったが、韮山城の出城として北条氏の滅亡まで存続したとされている。

 柏久保城は、狩野城の北北東約5kmの位置にあり、比高90m程の東西に伸びる山地の尾根上に築かれている。小規模な山城で、最上段の小さな主郭とその西に僅か1.5m程の段差で連なる東西に長いニノ郭が主体で、その北東側に腰曲輪があり、三ノ郭とされている。いずれも明確な土塁を伴うが、土塁は南面だけに築かれており、狩野城方面からの攻撃を想定していたと思われる。いずれの曲輪も大した兵を籠められる広さではない。その他は小さな腰曲輪が数ヶ所付属している程度で、城の東西の端の尾根筋に小さな堀切が穿たれている程度である。しかしよく見て回ると、主城域から離れた西の尾根の先にも土塁で囲まれた曲輪らしい平場があり、城域は一般に言われているより広かった様である。いずれにしても大した城ではないが、遺構は明確で、昇竜の如き勢いの北条早雲の息吹を伝える歴史の証言者として、貴重である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.976678/138.958544/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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