SSブログ

長浜城(静岡県沼津市) [古城めぐり(静岡)]

DSC00311.JPG←堀切と四ノ郭
 長浜城と言えば、多くの人がすぐ思い浮かべるのは豊臣秀吉が出世競争の中で初めて持った琵琶湖畔の城を思い浮かべるが、東国にも北条の海賊城として有名な城がある。

 長浜城は、小田原北条氏が、戦国時代末期の5代氏直の時代に、今川氏を滅ぼして駿河に進出した甲斐武田氏に対抗するため築かれた海賊城である。武田信玄は、今川義元亡き後の今川氏の弱体化を見て、1568年、甲相駿三国同盟を破棄して駿河に侵攻した。北条氏康・氏政は今川氏真を支援し、武田氏と交戦状態となった。氏康の死後、一旦和睦して甲相同盟が結ばれたが、1579年、越後上杉氏の跡継ぎ争いである御館の乱を巡って、北条氏政は武田勝頼と再び対立することとなり、駿豆国境を挟んで戦闘が繰り返されることとなった。この対立は駿河湾にも及び、制海権を巡って北条水軍と武田水軍が鋭く対立した。長浜城は、この海を巡る争いの重要な水軍基地として1579年頃に築かれたと考えられている。北条氏は、79年12月には三浦水軍の将梶原備前守らを長浜に配置して伊豆水軍を強化し、1582年に武田勝頼が織田信長に滅ぼされるまで、連年両水軍の間で海戦が行われた。武田氏滅亡後は、天下統一を目指す豊臣秀吉が、北条氏の前に立ちはだかった。秀吉との間に軍事的緊張が強まってくると、山中城下田城等の城塞群が大改修を受け、長浜城には韮山城にいた大藤与七やこの地の土豪大川兵庫が城番として配置された。しかし1590年の小田原の役では、秀吉の大軍の前に北条水軍は沈黙を余儀なくされ、長浜城もほとんど実戦することなく開城し、そのまま廃城になったものと思われる。

 長浜城は、伊豆半島西側の根元に深く入り込んだ重須湊を防衛するために築かれた城で、発端丈山から北西に伸びる尾根の先端が、内浦湾内で独立丘陵状になった小山の上に築かれている。コンパクトにまとまった小さな城であるが、随所に北条氏らしい築城技術が垣間見られる。最上部に主郭を置き、ニノ郭・三ノ郭・四ノ郭を直線的に配置した連郭式縄張りを基本とし、主郭から北東に海に向かって伸びる尾根上に段曲輪群を配置した構成となっている。主郭~四ノ郭までの間は、それぞれ小規模な堀切で分断されており、要所に土塁を築いて防御を固め、更に動線を屈曲させた虎口が構築されている。特にニノ郭と三ノ郭の間の大手虎口は、石積みで防御され、両翼の曲輪から挟撃できるように配置された小規模な枡形虎口となっている。この他、ニノ郭外周には石積みが見られ、段曲輪から主郭に至る登城道には石積み階段も見られる。日本城郭大系によれば、以前は別荘が建っていたらしく、石積みの一部はその時のものかもしれない。城から海を望むと、眼下にはヨットが連なって係留されていて、あたかも水軍の安宅船が係留されている様に思える。訪城した時は、国指定史跡となった城を大々的に整備しており、まさしく城普請の最中であった。また整備された後で再訪してみたい。尚、南東背後の山にも出城(網代山砦岩尻山砦)があったらしいが、登り口が見つからず登城は断念した。
主郭北東の段曲輪群→DSC00366.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.017881/138.888398/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 4

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント