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泉頭城(静岡県清水町) [古城めぐり(静岡)]

DSC00862.JPG←馬出しの堀跡
 泉頭城は、小田原北条氏の築いた駿豆国境の境目の城の一つである。弘治年間(1555~58年)に築かれたと言われ、武田信玄が駿河に侵攻して北条氏康・氏政と対峙した1569年には、北条家家臣の多目周防守(青木城主多米周防守と同一人物か?)と荒川清兵衛を城将として、三枚橋城戸倉城徳倉城と連携して、武田氏の伊豆侵攻に備えた。氏康の死後、一旦和睦して甲相同盟が結ばれたが、1579年、越後上杉氏の跡継ぎ争いである御館の乱を巡って、北条氏政は武田勝頼と再び対立することとなり、駿豆国境を挟んで戦闘が繰り返されることとなった。泉頭城も、1580年に武田氏の攻撃を受け、荒川豊前守・大藤長門守・多目権兵衛を城将とし、足軽大将の高橋氏・市南氏が各百騎づつで城を守った。翌81年、戸倉城将の笠原新六郎範定が寝返って戸倉城が武田方の城となると、泉頭城は両軍衝突の最前線となり、泉頭城と戸倉城の間で戦闘が繰り返された。1590年の小田原の役の際には、北条氏は泉頭城を破却して韮山城山中城に退いた。以後廃城となったが、大坂の役後の1615年、徳川家康は泉頭の城跡が大変気に入り、自らの隠居城として本多正純・土井利勝に城の造営を命じたが、翌年家康が死んだ為、工事は取り止めとなって、そのまま廃された。

 泉頭城は、戸倉城の北方、僅か1.3kmの位置にあり、現在は湧水地として有名な柿田川公園に変貌している。非常に広大な城域を有し、柿田川公園の更に東側の住宅地まで、城域であった。本曲輪は公園の駐車場に変貌しており、曲輪内の遺構は完全に湮滅しているが、周囲の堀跡の地形は明瞭に残っている。西曲輪は公園の中心部で、これまた遺構は湮滅しているが、南側に腰曲輪らしい平場が散見される。本曲輪の南には舟付曲輪があり、この辺りが最も遺構の残存度が良く、腰曲輪や堀切がはっきりしている。舟付曲輪は、柿田川を通じて戸倉城と連絡する舟付場であったらしい。東側の東曲輪・第六天曲輪・南曲輪は、宅地や畑・墓地などに変貌しており、遺構の湮滅が進んでいるが、東曲輪南の馬出し周囲には、堀跡がはっきりと残っている。破城によって遺構がかなり破壊されたと見られ、腰曲輪の塁線などはっきりしない部分も多いが、思ったよりは遺構が残っていて、縄張りの概略が掴めたのは予想外だった。
 尚、北条の城には、北条氏が信仰していたとされる第六天を祀ったものが多い。この城の第六天曲輪も、第六天を祀っていたものだろう。第六天曲輪跡の畑の、北側の堀跡に面した北端に2つの祠があったが、その名残であろうか。
舟付曲輪の堀切→DSC00837.JPG
DSC00909.JPG←本曲輪南の堀切跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.106349/138.902539/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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