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興国寺城(静岡県沼津市) [古城めぐり(静岡)]

DSC00921.JPG←本丸背後の高土塁
 興国寺城は、小田原北条氏の始祖で戦国乱世きっての梟雄、伊勢宗瑞(北条早雲)旗揚げの城として知られている。宗瑞の出自は長らく不明とされてきたが、近年では室町将軍奉公衆であった備中伊勢氏から出た説が有力になっている。将軍直臣の奉公衆であった関係で、足利将軍家と血の繋がりの濃い駿河の守護大名今川氏と関係が生じたらしく、宗瑞の妹が今川義忠の正室(北山殿)となり、その伝手を頼って、応仁の乱で荒れ果てた京を離れて駿河に下向してきたと考えられている。その後、1476年に義忠が急死すると、嫡子龍王丸が僅か6歳であった為、今川家中に家督争いが生じたが、宗瑞は「龍王丸が元服するまでの間、一族の小鹿範満が家督を代行する」と言う案を出して、見事に仲裁した。その後、一旦京に戻って幕府の申次衆となったが、1487年、家督を返上しない範満を打倒するため密かに駿河に下向し、範満を討って龍王丸を今川氏当主に据えた。これが今川氏親である。宗瑞は、氏親の後見・参謀となり、恩賞として興国寺城主に封ぜられた。その後、1493年に堀越御所に乱れに乗じて伊豆に討ち入り、伊豆の土豪達を傘下に収めつつ数年を掛けて伊豆を平定し、韮山城を築いて居城を移した。その後興国寺城は今川氏の城となり、駿豆国境を押さえる要衝として重視され、北条氏綱と争った河東一乱後の1549年には、今川義元によって大規模に改修された。義元の桶狭間での討死後の1568年、弱体化した今川氏を逐って武田信玄が駿河に侵攻すると、北条氏康・氏政は今川氏真を支援して駿河に進軍し、興国寺城は一時的に北条氏の持ち城となり、北条・武田両軍の攻防の場となった。1571年に両軍が和睦し、甲相同盟が成立すると、興国寺城は武田氏に割譲され、武田氏重臣の穴山梅雪の支配下となった。1582年、武田勝頼が織田信長に滅ぼされると、城主曽根下野守正清は開城して徳川家康に降り、徳川氏の城となった。1590年に小田原北条氏が滅び、家康が関東に入部すると、豊臣秀吉の部将中村一氏の家臣河毛重次が城主となった。1600年の関ヶ原合戦後は、三河三奉行の一人天野三郎兵衛康景が城主となったが、康景が逐電すると廃城となった。

 興国寺城は、愛鷹山麓の丘陵が低湿地帯に突き出た南端に築かれており、典型的な丘城の縄張りである。基本的には直線連郭式で、北から順に、北曲輪・本丸・二ノ丸・三ノ丸で構成されている。城跡は現在国の史跡に指定され、発掘調査が進められる一方、城址公園としての整備が行われつつあるが、今はまだ、ただの空き地という趣が強い。しかし一部を除いて遺構はよく残っており、特に本丸の三方を囲む高土塁と天守台、その背後の横矢の掛かった深さ18mもの大空堀は圧巻である。天守台には礎石が残り、その南側下方には石垣も部分的に残っている。本丸南側の土塁はかなり崩されてしまっており、二ノ丸との間の堀切もほとんど埋められてしまっている。ここには武田流築城術の特徴である丸馬出と三日月堀が築かれていたことが、発掘調査で判明している。この他、北曲輪の北側にも土塁が残っている。三ノ丸は、宅地化が進んでおり、遺構はかなり湮滅している。訪城時には発掘調査中だった。また、本丸の東側には谷を挟んで、清水曲輪と呼ばれる丘陵が並走しており、そこにも数段の腰曲輪が残っているようだ。今見られる遺構は、北条早雲在城の頃とは規模も縄張りも変わっていると思われるが、戦国時代の幕を開いた早雲旗揚げの城として、歴史的に貴重である。
本丸背後の大空堀→DSC00961.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.141432/138.807009/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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