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大平新城(静岡県沼津市) [古城めぐり(静岡)]

DSC01112.JPG←腰曲輪に囲まれた主郭
 大平新城は、富南城とも言い、小田原北条氏の築いた城である。城の創築は、一説には文亀年間(1501~04年)とも言われるが定かではない。はっきりしているのは、戦国後期の元亀年間(1570~73年)に、韮山城戸倉城の繋ぎの城として、北条氏が築城したことである。また大平城から大平山・鷲頭山と尾根伝いに西に向かえば、獅子浜城とも連絡することができ、両城が緊密な連絡をとっていたと考えられる。当初は北条氏の部将遠山民部が守ったが、のち北条左衛門氏堯が守備し、駿河に進出した甲斐武田氏の伊豆侵攻に備えた。1590年の小田原の役後、廃城となった。

 大平新城は、大平山の支尾根の北端の、比高わずか30m程の山上に築かれている。小規模な城であるが、遺構は広範囲に散在している。主郭周囲には腰曲輪が取り巻き、北西に伸びる尾根には墓地に変貌した数段の曲輪が築かれている。2ヶ所小規模な竪堀も確認でき、内一つは畝堀とされるが、畝が埋もれていてわかりにくい。更に北西には小丘状の出曲輪があり、これも墓地に変貌している。出曲輪と主城部との付け根には堀切があったらしく、その名残の切通し状の小道が墓地の脇に残っている。主城部より南に高さ20m程登った所には、東に突出した物見曲輪があり、土壇と腰曲輪、井戸跡などが残っている。物見曲輪から西に尾根筋を登って行くと小郭があり、韮山城への情報伝達を行った烽火台とされている。ここから南に尾根の鞍部へと降って行くと、小平場に挟まれた堀切があり、堀切と共に背後の尾根筋を防御する曲輪であったと考えられる。以上が山上の遺構であるが、麓の円教寺は城主の居館跡と推測されている。それほど守りの堅い城ではなく、戦国後期の城としては縄張りに物足りなさが残るが、繋ぎ程度の小城であればこれで十分だったのだろう。
畝堀とされる竪堀→DSC01105.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.072792/138.916396/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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