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御幸塚城(石川県小松市) [古城めぐり(石川)]

IMG_7319.JPG←本丸の櫓台跡
(2005年3月訪城)
 御幸塚城は、今江城とも言い、加賀守護富樫氏の築いた城である。明確ではないが、富樫泰高の居城であったとも言われる。泰高は、恐怖政治を敷いた専制将軍足利義教の逆鱗に触れて失脚した兄教家に代わって家督を継承したが、その後間もなく、嘉吉の乱によって将軍義教が赤松満祐に暗殺され、その後は、復帰運動を始めた兄教家と守護職を巡って争った。1447年、加賀を二分して教家の嫡男成春と泰高の二人を、それぞれの半国守護とすることで和睦が成立した。その後、1462年に成春が病死すると、泰高は加賀一国の守護となり、その2年後には成春の嫡子政親に家督を譲って泰高は隠居した。1467年に応仁・文明の大乱が巻き起こると、東軍に付いた政親に対して、弟幸千代が西軍方に付いて加賀国内で争った。政親は、一向一揆を懐柔して味方に付けることにより、幸千代を打ち破って加賀守護の地位を固めたが、強大になった一向一揆を警戒するようになって次第に一揆勢と反目し、1488年、一揆勢は隠居していた泰高を擁立して、20万とも言われるおびただしい数で政親の拠る高尾城を攻め滅ぼし、その後泰高を加賀守護に据えた。御幸塚城は、この後には一向一揆勢の城砦として機能していたと考えられている。既に加賀国内の実権は一揆勢が握っており、加賀一向一揆の内部抗争である享禄の錯乱で富樫氏は加賀から逐われて、加賀はいわゆる「百姓の持ちたる国」となった。戦国時代後期になると、織田信長は越前を制圧して加賀に進出した。1576年、信長は大聖寺城将戸次広正を佐久間盛政に替え、盛政は徳山則秀と共に一揆勢の拠る御幸塚城を落城させた。以後、織田氏の持ち城となり、1600年の関ヶ原合戦の際には、加賀の前田利長は東軍に付き、西軍に付いた小松城主丹羽長重らに対抗するため、御幸塚城に山崎長徳・奥村栄明・太田長知らを布陣させたと言う。その撤退戦として行われたのが浅井畷の戦いで、加賀百万石を現出する契機となった。

 御幸塚城は、現在の今江小学校から帝人加工糸小松工場にかけての丘陵地に築かれていた。かつては、城のすぐ西側に今江潟と呼ばれる大きな干潟が広がり、沼地に面した丘陵という要害地形であったが、今江潟は既に開拓されて消滅しており、往時の雰囲気は残っていない。しかし地勢は健在で、小学校の南側は高台となっており、最上部に今江城址の大きな石碑が建っている。ここは本丸の櫓台だったと考えられる。周囲は切岸を思わせる斜面で囲まれ、周りの道路はかつての堀の名残であったと思われる。既に周辺は市街化が進み、城跡らしさを感じさせないのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.379391/136.436881/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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