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唐崎城(長野県千曲市) [古城めぐり(長野)]

DSC05132.JPG←東尾根の堀切
 唐崎城は、村上氏の庶流雨宮氏が築いた詰城である。平時の居館、生仁館に対する詰城である。城主は雨宮摂津守・生仁(身)大和守等と言われている。1387年、村上頼国・小笠原清順・高梨朝高・長沼太郎らは善光寺で挙兵し、守護代二宮氏泰の子種氏がいた長野市平柴の守護所を攻めた。室町幕府は守護代二宮氏泰を派遣して種氏を助けさせたが、二宮氏は横山城を攻められて敗れ、唐崎城(史料では生仁城と表記)に逃れたが、村上頼国らに再び攻められて落城したと言う。1400年の大塔合戦では、雨宮弥五郎・生仁大和守は、守護小笠原長秀に抗して挙兵した村上満信らに従い、屋代城に入って、そこから打って出て篠ノ井丘に陣を構えた。1403年には、信濃国代官細川慈忠と村上満信らが唐崎城(史料では生仁城と表記)で戦ったと言う。その後、1440年の結城合戦に雨宮氏と生仁氏が従軍したことが知られているが、その後は歴史から姿を消した。清野氏に滅ぼされたと考えられている。その他に、一説では宇藤摂津守安時が城主であったとも言われ、城の歴史には不明点が多い。

 唐崎城は、標高480m、比高120mの唐崎山に築かれている。鞍骨城が築かれた鞍骨山から派生する支尾根の西端に当たる。井戸跡の残る主郭から、三方に伸びる尾根に段曲輪を各2~3段程設けただけの小規模な城である。段曲輪の一部に竪堀や堀切があるがいずれも規模は小さい。背後の東側の尾根は、明聖砦を経由して天城城に繋がっており、ここにも堀切があるが自然地形に近いレベルのものである。明聖砦との間の三角点のある尾根も曲輪だったらしく、平場と小掘切が残っている。普請の規模が同程度であることから、ここまで含めて唐崎城の城域と考えるのが妥当であろう。しかし他の川中島城塞群と比べると、縄張り的に古い形態で、甲越両軍が激突した戦国中期には既に使われていなかったのかもしれない。尚、唐崎城は西麓から登山道が整備されており、容易に登ることができる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.545613/138.154138/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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