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竹山城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC06276.JPG←腰曲輪の石垣
 竹山城は、川中島城塞群の一つで、清野氏の庶流西条氏が築いた城と言われている。清野氏の詰城鞍骨城の支城として築かれたと考えられる。1553年、武田信玄が村上領に侵攻すると、西条治部少輔は葛尾城を追われた村上義清に従って越後に逃れたが、翌年には武田信玄に臣従し、武田方の謀将真田幸隆が東条氏の籠もる尼巌城を攻略すると、尼巌城の改修に従事した。竹山城の歴史は不明であるが、その位置と遺構から考えれば鞍骨城の有力支城の一つであったと想像される。当初は西条氏の詰城であった竹山城は、川中島地域が甲斐武田氏と越後上杉氏との接壌地帯となり、甲越両軍の重武装地帯に変貌すると、鞍骨城を頂点とする川中島東岸の城塞群の一つとして武田氏によって改修されたと考えられる。

 竹山城は、海津城の南方の、北に向かって張り出した標高476m、比高116mの象山山頂に築かれている。この山稜は、鞍骨山から北に向かって伸びた尾根の先端に当たり、鞍骨城の北の護りであったと考えられる。北麓から登り口が付いており、城跡も北半は公園化されているので、容易に登ることができる。平坦で南北に長い二ノ郭と、その上に段曲輪と主郭が置かれている。ニノ郭の手前には小郭と虎口が形成され、ニノ郭外周には薮に埋もれながらも石垣が残存している。主郭とその周囲の腰曲輪にも、部分的にではあるが石垣が多数残存し、主郭虎口には石段も見られる。また、特に南の尾根筋に築かれた腰曲輪には、石垣が良好に残っている。一方で、東側の腰曲輪の石垣は、主郭に防災無線塔を建てた時に積み直されたらしく、明らかに後世の乱積みとなっている。腰曲輪には石塁による虎口も形成されている。南の小山を挟んで更に南側には二重堀切が穿たれている。堀切には土橋が掛かるが、間に土塁の障壁を築いて動線をS字状に屈曲させており、技巧的な搦手構造となっている。竹山城は、コンパクトに纏められた城であるが、石垣が多数散在した、往時は全山総石垣の城だったのだろう。
動線を屈曲させた二重堀切→DSC06258.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.555926/138.195168/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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