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三戸城(青森県三戸町) [古城めぐり(青森)]

DSC06620.JPG←鍛冶屋御門の枡形石垣
 三戸城は、奥州の名族南部氏本宗家の戦国時代の居城である。三戸南部氏は鎌倉時代の糠部郡入部以来、聖寿寺館を本拠としていたが、1539年に家中の争いが元で聖寿寺館を消失し、24代南部晴政は、永禄年間(1558~69年)に新たに三戸城を築いて居城とした。26代信直の時の1590年に豊臣秀吉による天下統一がなされ、秀吉の朱印状により、家臣団の屋敷を三戸城下に移し、近世城郭として整備された。翌91年、九戸政実の乱の鎮定後、豊臣秀吉から和賀など三郡を加封され、浅野長政らの勧めもあって、新たに南に盛岡城の築城を始めた。しかし盛岡城の完成は1633年で、それまでは三戸城から九戸城郡山城(高水寺城)と居城を移し、三戸城には弟の政信を置いた。盛岡城に居城を移した後、九戸城・郡山城は破却されたが、三戸城は破却されずに長く残し、城代、後には代官が置かれて幕末まで存続した。

 三戸城は、最高所で比高80m程の、熊原川南岸にそびえる菱形形状の独立丘陵上に築かれた広大な城郭である。城跡は現在公園化されていて、本丸付近はかなり改変されているが、全体に遺構は良く残っている。非常に変わった縄張りで、普通であれば大堀切で分断した連郭式の城にするところであるが、三戸城は短軸でも幅が広すぎるせいか分断的な縄張りではなく、高低差をつけて区画した曲輪群を縦横に連ねた、群郭的な縄張りとなっている。その為、本丸を中心とした求心的な縄張りではなく、群郭の外郭線を主な防衛線としていた様である。南西端と北東端には物見の曲輪を置き、眼下を睥睨している。大手は南西側で、外郭線に綱御門と呼ばれる枡形門があり、この門と周囲の曲輪には石垣が築かれている。この綱御門だけが復元整備されている。この内側にも大きな枡形土塁が築かれた鳩御門がある。本丸までの間には、更に続いて欅御門・大御門があり、それぞれ土塁が残っているが、かなり破壊を受けしまっている。大御門の土塁に連なる形で城内唯一の空堀がある。深さは3m程のものである。本丸の北側に一段低く連なっている谷丸の切岸には、石垣があったとされるが現在は湮滅している。三戸城で必見の遺構は搦手にあり、搦手筋に構えられた鍛冶屋御門には崩落が進んでいるものの、しっかりと石垣が残っている。この門も枡形虎口となっており、更に上部には腰曲輪があって、腰曲輪の櫓台から左袖となって横矢を掛けている。この付近は腰曲輪もほぼ原型を留めており、中世城郭の雰囲気を濃厚に漂わせている。公園化で遺構が破壊されていなければ、もっと素晴らしかっただろうにと惜しまれる。
鳩御門の枡形土塁→DSC06459.JPG
DSC06544.JPG←城内唯一の空堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.381573/141.264310/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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