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八戸城(青森県八戸市) [古城めぐり(青森)]

DSC07090.JPG←わずかに残る二ノ丸切岸
 八戸城は、盛岡藩の支藩八戸藩の居城である。元々は、建武の新政期に北畠顕家が陸奥国司として奥州多賀城に下向し、その国代南部師行が、1334年に根城を築き根城南部氏となったが、その後間もない頃に師行の孫信助が根城の支城と築いた「中館」が前身と言われている。信助の系統は、以後中館氏を称して代々の居館とした。戦国時代の末に三戸城主南部信直は豊臣秀吉から南部内七郡の支配を認められた。江戸時代初期の1627年、信直の子利直は根城南部氏を岩手県遠野へ国替えし、これに従って中館氏もこの地を去ると、八戸は三戸南部氏の直轄地となった。この時、利直は自ら縄張りして八戸城と城下町の作事・普請を行った。その後、盛岡城に移った南部重直は、1664年に世継ぎを定めないまま没し、徳川幕府は遺領10万石の内、弟重信に盛岡8万石を与え、弟直房には八戸2万石を与えて八戸藩が成立した。これ以後、八戸城は本格的に整備された。八戸城は、江戸時代に築かれた為、館或いは陣屋に近いもので、当初は「城」と呼ばれたが、後に「御屋敷」と呼び替えられた。江戸時代後期の1838年、8代信真は沿岸警備の功で城主格として扱われるようになり、再び城と呼ばれるようになって明治維新を迎えた。

 八戸城は、現在は市街化の波に完全に埋没し、遺構はほぼ湮滅している。本丸は三八城公園となり、二ノ丸は市街化されている。本丸は現在でも周囲より10m程の高台となっていて、その地勢を残している。また二ノ丸北側には、一部切岸の地形が残存し、城らしい跡をわずかに留めている。その他では、内堀の標柱が道路脇に建っているが地形は改変されており、枡形があった付近も改変されて形状は不明である。残念ながら、ほとんど城の痕跡は残っていない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.514672/141.487716/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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