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浪岡城(青森県青森市) [古城めぐり(青森)]

DSC07640.JPG←横矢の掛かった塁線
 浪岡城は、浪岡御所とも呼ばれ、南北朝時代に後醍醐天皇の命で奥州に下向した北畠親房・顕家父子の裔とされる浪岡北畠氏の居城である。しかしその系譜には諸説あり、明確にはできない。一般的には、顕家の子顕成が浪岡に入部して、浪岡北畠氏の祖となったと言われている。浪岡北畠氏は当初東山根の館にいたとされ、1460年頃に浪岡城を築いて居城とした。浪岡北畠氏は1500年代前半が最盛期で、盛んに京都と交流したりしていたが、1562年に「川原御所の乱」と呼ばれる一族の内乱が起きて、浪岡城主北畠具運が川原御所北畠具信に殺害され、以後急速に勢力が衰えた。1578年、南部氏から独立して津軽平定を目指した大浦城主大浦(津軽)為信によって浪岡城は攻撃され、御所側は戦わずして離散し、浪岡城主北畠顕村は西根の禅寺に連行されて自害させられた。ここに浪岡北畠氏は滅亡した。その後浪岡城は、大浦氏によって利用され、為信の弟が代官として入ったが、後に廃城となった。

 浪岡城は、浪岡川北岸の比高僅か10m程の段丘上に築かれた城である。低湿地帯の中の平坦な城で、本丸に当たる内館を中心に、浮島の様に周囲に曲輪を配置しており、イメージ的には常陸小田城に近い。ただ、ある程度求心的な縄張りは有するものの、群郭的縄張りに近い。曲輪は、内館・北館・西館・東館・猿楽館・検校館・新館・外郭から成り、その間を水堀で区画している。前述の通り内館が本丸で曲輪の位置も一番高いが、元からの地形ではなく全体を土盛で嵩上げしてるのではないかと思われる。北館は家臣団屋敷があったらしく、現在建物跡や区画跡が復元整備されている。北館にのみ枡形虎口が築かれており、内館を防衛する重要な曲輪として機能していたことが推測される。そして内館と北館の周囲にのみ、水堀の真ん中に細い帯曲輪が築かれている。土橋はなく、いずれの曲輪にも木橋を使って連絡していた様だ。この城では、内側に湾曲させて横矢を掛けた塁線が特徴で、あまり高度な縄張りは見られない。現在、国指定史跡として広範に整備されており、往時の姿を知ることができる。
曲輪間の帯曲輪→DSC07655.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.717054/140.604089/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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