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浅瀬石城(青森県黒石市) [古城めぐり(青森)]

DSC07772.JPG←本丸北西角の櫓台
 浅瀬石城は、一戸南部氏の庶流千徳氏の居城である。1240年に南部光行の長男彦太郎行朝の子千徳伊予守行重が浅瀬石城を築いたとされる。文明年間(1469~86年)には、7代政久は三戸南部氏より所領を安堵され、津軽一円の代官として栄えた。1561年、10代大和守政氏は大浦(津軽)為信と攻守同盟を結び、政氏は津軽の南部諸城を攻め、1576年には大光寺城を、1585年には千徳氏の一族千徳掃部政武の田舎館城をも攻め落とすなど、津軽平定に活躍した。一方、三戸城主南部信直は、名久井日向を大将とした3000の兵で浅瀬石城を攻めたが、撃退された。その後、千徳氏は津軽氏と不和となり、1596年、11代千徳政康は津軽為信との決戦を決意したが、反対する家臣達が為信の元に逃亡し、為信が浅瀬石城を攻撃すると政康は城を支えきれず、自害して落城した。

 浅瀬石城は、東北道黒石ICの南東隣の、浅瀬石川南岸の比高20m程の段丘上に築かれている。現在、城内全域が林檎畑となっているが、曲輪間を分断する堀跡がよく残っている。本丸・二ノ丸・侍屋敷・町屋敷と4つの曲輪から構成され、北の二股沢を挟んだ台地上にも御堂館・代官館という外郭を構えていた様である。曲輪内は前述の通り畑となっているので遺構ははっきりしないが、周囲の切岸がしっかりと残り、本丸北側には2段の腰曲輪らしい地形も残っている。本丸北西角は、下から見上げるといかにも櫓台であったという雰囲気があり、実際櫓が建っていたと考えられる。本丸と二ノ丸の間の堀は、現在畑の中の車道に変貌しており、水路なども造られているが、地形はほぼそのまま残っている様である。手書きの城の大きな案内板や城址碑が建てられ、畑のご老人に畑への入場のお願いをすれば、笑顔で快諾頂けた。一面の林檎畑に変貌しつつも、地元で大切にされていることがわかる城で、気持ちよかった。
本丸~二ノ丸間の堀跡→DSC07745.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.619189/140.617694/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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