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飯詰城(青森県五所川原市) [古城めぐり(青森)]

DSC07954.JPG←主郭の腰曲輪群
 飯詰城は、高楯城とも呼ばれ、浪岡北畠氏の家臣朝日氏の居城である。元は、1091年に藤崎城主安東氏が築いた玄武砦に始まるとされる。その後の南北朝期の1335年、後醍醐天皇の側近万里小路藤房は、諫言が容れられず、建武の新政に失望して出家し、その後行方をくらませたが、一説には安東氏を頼って奥州に下向し、この地に土着したと言う。この伝承によれば、藤房は嫡子景房と共に玄武砦を城郭として整備して高楯城と改称し、1344年に景房が朝日氏を名乗って初代城主となったとされる。北畠氏が浪岡城に入部すると、朝日氏はその配下として活動した。戦国時代後期になると、大浦城主大浦(津軽)為信は津軽統一を目指して周囲を席巻し、1578年に浪岡北畠氏はあっけなく滅ぼされた。しかし飯詰城主朝日左衛門尉藤原行安は、10年間に渡って抗戦を続け、遂に1588年、力尽きて城に火をかけ、主従300余名は自刃したと言う。飯詰城の落城を以って、津軽為信の17年に渡る津軽統一事業は完成した。

 飯詰城は、妙龍寺東側の比高20~30m程の丘陵上に築かれている。西郭・主郭・東郭の大きく3郭の曲輪群からなる、そこそこの広さを持った城である。西郭群は主郭前面を防衛する出丸で、東西に長い曲輪とその周りの腰曲輪で構成されている。この西郭群だけで、一つの独立した城として機能できるようになっている様である。西郭群に西端には模擬櫓が建てられている。西郭の中心郭と主郭群との間は堀切で区画されている。主郭群では、主郭の周囲には数段の腰曲輪が囲繞し、主郭前面に数段の段曲輪が築かれて防御を固めている。主郭背後は5m程の切岸で、その東側に東郭群がある。東郭群はニノ郭に相当すると考えられ、多くの腰曲輪が形成されている。東郭群の東側には深さ5m程の堀切があって、尾根筋を分断している。この堀切は南側で直角に曲がって西側に走り、横堀となって主郭東側下部まで到達している。どうも城内通路としても使われた堀らしく、内枡形の変形の様にも考えられる。これらの主城部南側にも、南側の高地と分断する広い堀跡がある。中世城郭としてなかなか立派な遺構を残している。
西郭の堀切→DSC07930.JPG
DSC07973.JPG←東郭群の深い堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.826175/140.495793/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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