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福島城(青森県五所川原市) [古城めぐり(青森)]

DSC08170.JPG←外郭の高土塁と空堀
 福島城は、安東氏が築いた広大な城である。元は平安時代末に、何らかの城館があったらしいが詳細は不明。その後、鎌倉時代末期に十三湊を支配して勢力を誇った安東貞季が、福島城を築いたと考えられている。安東氏は鎌倉幕府から蝦夷管領に任命されていたが、管領職を巡って又太郎季長と五郎三郎季久が争いを起こし、津軽中を巻き込んで合戦に及んだ。この安東氏の内乱は、鎌倉幕府内管領の長崎高資が、抗争する安東氏家中の双方から賄賂を受け取って、双方に都合の言い様に取り繕った為、返って乱が増幅し、この収拾に失敗したことが鎌倉幕府の権威を失墜させ、幕府滅亡の一因になったと言われている。南北朝時代になると、十三湊安東氏は南朝方として活動したが、1340年に、大津波が十三湊に来襲し、福島城をも壊滅させたと言う。しかし安東氏は、その財力で数年にして復興を成し遂げ、福島城も旧状を上回る規模で再興した。室町時代になると、三戸南部氏は謀略を以って十三湊安東氏を追い落とし、福島城は安東氏没落と共に廃城となった。

 福島城は、十三湖北岸の丘陵地に築かれた平城で、内郭と外郭から構成された、とりとめないほど広大な城域を有した城である。内郭は、方形単郭の城館で、周囲に土塁と水堀が残っている。外郭は、内郭から東に500m程も離れた位置にあり、国道脇に外周を防衛する高土塁と空堀、門跡が残っている。土塁は高さ5m程もある豪壮なもので、途中で屈曲して横矢を掛けており、その南側に外郭東門や井戸の跡が残っている。私が踏査したのは300m程で外郭全体の1/4程度に過ぎず、外郭は延々十三湖の北岸まで続いていたらしい。ただ、内郭まではかなりの距離と面積があり、全域を城砦化していたとは考えにくいので、長城形式で領域外周を防衛したものだろう。同様の例は、常陸小幡城などでも見られる。この他にも、内郭北西部の山林の中にも土塁と空堀が残っている。長城形式の外郭がこれほどしっかり残っている中世城郭も珍しい。十三湊の海運を支配して莫大な富を誇っていた安東氏の勢威を今に伝えている。
内郭周囲の水堀と土塁→DSC08215.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/41.047002/140.365008/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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evergreen

城郭の広大さというのは権勢を伺う事ができますが、
防衛線の長さというのは、脅威の大きさが伺えますね。
この辺りは、豪族と中央政府のせめぎあいや、
同族の争い、下克上の絶えなかった土地ですから、
長城のような長い防塁は、それを表しているのでしょうか。
by evergreen (2012-10-23 12:35) 

アテンザ23Z

>evergreenさん
おそらくは南部氏に対する防衛線ではないでしょうか。
当初は単なる単郭方形居館だったと思いますが、
南部氏の勢力が伸びてくると
その備えとして外郭を築いたと考えるのが自然の様に思います。

青森の中世史はまだ勉強中なので、
詳しいことはわかりませんが・・・。
by アテンザ23Z (2012-10-23 19:42) 

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