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石川城(青森県弘前市) [古城めぐり(青森)]

DSC08965.JPG←土塁のある主郭
 石川城は、大仏ヶ鼻城とも言い、津軽に進出した三戸南部氏の支城である。元々は石川楯と言い、1333年に鎌倉幕府滅亡の後、北条氏の一族であった名越時如と安達高景は津軽に逃れ、この地の豪族大光寺曾我氏を頼った。そして曾我氏と共に大光寺城に立て籠もったが、岩楯曾我氏らに攻め落とされ、逃れた将兵は石川楯に立て籠もったがこれも落とされ、更に逃れた持寄城も攻め落とされて大光寺曾我氏は滅亡した。その後、室町時代中期には三戸南部氏が勢力を西に伸ばし、十三湊の安東氏を謀略を以って追い落とし、津軽にその勢力を拡張させた。1533年には、南部高信が大兵を率いて津軽に侵攻し、津軽郡代となって石川城を居城とした。一方、南部氏の支族であった大浦氏は大浦城を居城として津軽に半独立的な勢力を扶植していたが、1571年、大浦(津軽)為信は津軽平定を目指して挙兵し、石川城を奇襲して高信を自刃させ、城を攻め落とした。その後為信は、家臣の板垣兵部将兼を城将とし、石川城は大浦氏の支城となった。1600年の関ヶ原合戦の時には、板垣氏は為信留守中に多田氏、尾崎氏と共に謀反を起こして討たれた。その後、弘前城が築かれると、石川城は廃城となった。

 石川城は、標高97m、比高47mの丘陵上に築かれている。現在大仏公園となっている為改変を受けているが、階段状に連なった曲輪群が残っている。最上部の主郭には背面に土塁が築かれており、櫓か何かがあったと考えられる。主郭周囲には腰曲輪群が取り巻き、堀状の地形もあるが、公園化に伴う改変も多く、どこまでが遺構か判然としない。主郭部の北側にはニノ郭・三ノ郭などが階段状に連なっていて、これも公園化による改変が見られるが、主殿などが置かれていたと想像される。高度な縄張りは見られず、古い形態の山城だった様である。折しも弘前城同様、桜満開の山城巡りとなった。
階段状の曲輪→DSC08941.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.547665/140.543922/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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