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霞城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC09629.JPG←大手門の枡形石垣
 霞城は、川中島城砦群の一つで、信濃守護小笠原氏の庶流とされる大室氏が築いた城と考えられている山城である。武田氏時代以前の歴史は不明で、村上義清が武田信玄に逐われて越後に逃れると、大室助左衛門は武田氏に降った。1582年に武田氏が滅亡すると、大室助左衛門の子左衛門尉綱定は川中島を支配下に置いた上杉景勝に臣従し、旧領を安堵された。その後、豊臣秀吉の命で越後上杉氏が会津に移封となると、大室氏もこれに従って当地を離れ、霞城は廃城になったと推測される。

 霞城は、標高400m、比高わずか55mと言う、川中島周辺の山城群では異例の低所に築かれた山城である。しかしその遺構は圧巻で、主郭やその周囲の腰曲輪は、ほぼ全て石垣で囲まれており、その高さは高い所で3m程にも及ぶ。しかも部分的な残存ではなく、各曲輪のほぼ全周に渡って石垣が残っており、鞍骨城鷲尾城竹山城など石垣の名城の多い当地にあっても、群を抜く素晴らしさである。この城の石垣の特徴は複雑な折れを持っていることで、長野の平石積みの石垣では類例が少ない。特に、圧巻なのは西にやや下った所にある大手門の石垣で、近世城郭バリの枡形門を平石積みの石垣で形成しているのである。この大手門遺構については、本城域からやや離れているせいか、不思議な事にどこの城郭サイトにも記載がほとんどない。この他、裏山への南東尾根筋にも石垣で構成された虎口が残り、その先の通路も脇を石垣で補強しているなど、石垣使用が徹底されている。堀切はなく、曲輪群だけで構成された城で、おそらく武田氏支配時代に鉄砲戦を想定して大改修された遺構と思われるが、石垣造りの枡形や巧みな折れ等近世城郭的要素も強く、或いは織豊期まで時代が下るかもしれない。いずれにしても必見の遺構群である。
幾重にも重なる石垣群→DSC09620.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.594590/138.221730/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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