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大岩城(長野県須坂市) [古城めぐり(長野)]

DSC00719.JPG←主郭背後の大堀切
 大岩城は、信濃源氏井上氏の一族須田氏の本城である。須田氏の事績は須田城の項に記載する。大岩城の創築は古く、鎌倉時代の1193年頃と言われている。戦国時代には、川中島で攻防を繰り広げた甲越両軍の中にあって、背後の灰野峠を通る旧道は「謙信道」と呼ばれる川中島に通じる上杉軍の軍道で、上杉方の交通路を押さえる要衝として重視されたと考えられる。大岩城は、上杉氏時代を通してこの地の中心で在り続けたが、1598年に豊臣秀吉の命で上杉景勝が会津に移封となると、廃城になったと考えられる。
 大岩城は、明覚山から北に伸びる支尾根の上に築かれた、標高680m、比高240mの峻険な山城である。幾つか登城道がある様であるが、私は須田氏の居館跡である西麓の蓮生寺から登った。しかしあると思った城道は間もなく消えてしまい、急斜面を直登するはめになってしまった。その苦労の代わりに、この西斜面を登ると途中に数本の竪堀が斜面上に穿たれているのを見ることができる。ようやく北西の稜線に辿り着いても、細尾根の上は岩場が多く、なかなか城に辿り着かない。ようやく見えてきた小郭数段と小堀切2本を越えると、ニノ郭に到達する。ニノ郭は両サイドに帯郭を設け、南側にも1段低い腰曲輪を設けている。ニノ郭周囲には僅かに石積みも残っている。腰曲輪の先に深さ3m程の堀切があって、主郭に繋がる2段の腰曲輪がある。前衛の腰曲輪には石垣の残欠が有り、その上に主郭は、前面に土壇が築かれている。主郭背後は深さ8~10mもあるド迫力の大堀切で、その先の尾根にも小郭を挟みながら計3本の堀切が穿たれて、背後の防御を固めている。以上の様な感じで、大岩城は単純な連郭式だが城域は長大で、大規模な堀切を持った豪壮な山城であった。尚、大手道は北西尾根の先でも途絶しており、よくわからなかった。
西側斜面の竪堀→DSC00620.JPG
DSC00683.JPG←ニノ郭の石積み

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.656852/138.343395/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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