SSブログ

玉縄城(福島県金山町) [古城めぐり(福島)]

DSC01109.JPG←主郭手前の堀切と土橋
 玉縄城といえば、小田原北条氏の一級支城で玉縄北条氏の居城玉縄城をすぐに思い浮かべるが、ここに記載するのは全く別の奥会津の城である。

 玉縄城は、川口城とも呼ばれ、横田中丸城主山ノ内氏の一族川口氏の城である。山ノ内氏は会津入部以来、中丸城を本拠に一族を奥会津の要地に配し、これら一族は「山ノ内七騎党」と称された。玉縄城も七騎党の持ち城で、1544年に山ノ内俊清が中丸城を嫡男舜通に譲り、末子俊甫と共に川口に玉縄城を築いて移り住み、川口氏の祖となった。1589年、摺上原の戦いで会津の戦国大名葦名氏を滅ぼした伊達政宗は、奥会津にその勢威を伸ばした。玉縄城主川口俊安・沼沢氏・野尻山ノ内氏らは政宗に臣従したが、本家の山ノ内氏勝は政宗に従わず頑強に抵抗した。政宗は、川口氏らを先導役として横田中丸城を始めとする山ノ内氏諸城を攻めた。間もなく豊臣秀吉の小田原の役となり、秀吉は奥州諸侯に参陣を求め、その後の奥州仕置で不参の奥州諸侯を悉く改易し、山ノ内氏は没落した。一方、伊達政宗も実力で切り取った会津を没収され、川口氏は米沢、奥州白石と移ってこの地を離れた。

 玉縄城は、只見川と野尻川の合流点の南西にそびえる標高484m、比高184mの山上に築かれている。非常に変わった縄張りの城で、山上の主郭とその下のニノ郭が離れており、その間を扇形に広がった広い斜面でつないだ構造となっている。ニノ郭手前にも100m程離れて物見の曲輪があり、祠の祀られた段曲輪を伴っている。ニノ郭は平坦で四角い曲輪で、前面に腰曲輪を伴っている。西側斜面には畝状竪堀状の地形があるが、竪堀がかなり浅く遺構かどうかちょっとはっきりしない。西側に内枡形の搦手虎口があり、そこから南縁部にかけて土塁が築かれている。そして主郭に繋がる城道には土橋の架けられた堀切が穿たれている。その向こうには枡形状の方形区画があり、そこから竪堀状の大手道が主郭まで繋がっている。大手道の東側には腰曲輪が2段あるが、傾斜のある窪地状で、井戸曲輪だった可能性もある。大手道を登って行くと、斜面上部に狭い腰曲輪があり、その先に斜面を挟んで主郭があり、主郭手前も土橋の架けられた堀切が穿たれて防御を厳重にしている。主郭背後は横堀状の堀切となっているが、横矢が掛かり屈曲している。この地方の城では横矢掛かりの堀は珍しい。また主郭東角は一段低い平場となっており、背後に降りる搦手虎口があったのかもしれない。この他、登山道の入口近くに土塁と櫓台のある平場があり、入口が木戸状になっていることから、大手の番所跡の様に想像される。また中腹には広大な平場があり、根古屋だった様である。尚、居館は野尻川対岸の段丘上にあったが、遺構は宅地化で湮滅している。玉縄城は風変わりな縄張りが特徴的だが、ちょっとパッとしない印象の城である。
主郭背後の堀切→DSC01143.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.449265/139.516920/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 4

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント