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桧原丸山城(福島県三島町) [古城めぐり(福島)]

DSC01665.JPG←主郭搦手虎口の石垣
 桧原丸山城は、横田中丸城主山ノ内氏一族の城である。山ノ内氏は会津入部以来、中丸城を本拠に一族を奥会津の要地に配し、これら一族は「山ノ内七騎党」と称された。桧原の丸山城も七騎党の持ち城で、桧原山ノ内氏の居城であった。戦国末期の1589年当時の城主は山ノ内俊範・俊知で、摺上原の戦いで会津の戦国大名葦名氏を滅ぼした伊達政宗は奥会津に侵攻し、桧原丸山城と岩谷城を突破して、山ノ内氏勝の居城横田中丸城を攻撃したと言う。豊臣秀吉の奥州仕置による山ノ内氏没落と共に廃城になったと思われる。

 桧原丸山城は、同じ山ノ内七騎党の持ち城であった鴫ヶ城と岩谷城の中間に位置し、両城と共に山ノ内領の入口を押さえる要衝であったと思われる。只見川東岸にそびえる標高465m、比高170mの山上に築かれている。北東麓は根古屋らしく、だだっ広い平地が広がっており、一部に溝状遺構や堀状の地形がある。何らかの遺構であると推測される。根古屋の上方に伸びている北尾根の先端には物見曲輪があり、西辺に土塁と櫓台が築かれ、南側には虎口土塁と堀切が築かれて、主城域と区画されている。この虎口はわずかに食い違いになっているようにも見える。更に尾根を登って行くと、物見台や曲輪らしき緩斜面が続き、小堀切を跨いで主郭に到達する。主郭の規模は小さく、それほどの居住性は有していない。主郭周辺はかなり藪が多く、遺構の確認が大変であるが、搦手虎口に石垣が明瞭に残っているのが確認できる。主郭の後方にはニノ郭などの段曲輪がある。この付近の一部には石が転がっており、どうも石積みのあった城だった様である。この他、主郭下方の緩斜面西側には、横堀で尾根筋から独立した西側物見台があり、土橋で連結されている。只見川の水運を監視すると同時に、北西に位置する鴫ヶ城と連絡していたのであろう。全体を見ると、城域は広いが遺構は比較的小規模で、あくまで詰城として位置付けられていたのであろう。
物見曲輪の土塁→DSC01735.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.482540/139.676129/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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