村山館(東京都瑞穂町) [古城めぐり(東京)]
←水路部の屈曲する道路
村山館は、武蔵七党の一つ村山党の惣領家村山氏の居館である。村山氏は、平忠常の孫頼任が村山に住して、村山貫主と呼ばれたことに始まる。金子・山口・仙波・難波田等の庶家を輩出し、狭山丘陵を中心に勢力を張った豪族であった。殿ヶ谷の村山館の館主と言われる村山重信は、保元の乱で活躍した金子十郎家忠の8代の孫と言われ、元弘の乱の際に新田義貞の鎌倉攻めの軍勢に加わり討死した。戦国末期の天正年間(1573~92年)には村山土佐守義光が館主で、小田原北条氏に仕え、北条氏滅亡後は帰農したと言う。
村山館は、福正禅寺の南側に広がる平地にあったとされる。宅地化が著しく明確な遺構はないが、館跡の東側には現在でも往時の水堀跡と考えられる水路が流れ、ちょうど水路の部分で道路がクランク状に屈曲しており、虎口の名残りを想起させる。館の背後の丘陵地に当たる福正禅寺境内は、居館に対する詰城であったと考えられており、ここにも明確な遺構はないが、眺望に優れた物見の適地であったことが今でもよく分かる。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.768139,139.361851&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
村山館は、武蔵七党の一つ村山党の惣領家村山氏の居館である。村山氏は、平忠常の孫頼任が村山に住して、村山貫主と呼ばれたことに始まる。金子・山口・仙波・難波田等の庶家を輩出し、狭山丘陵を中心に勢力を張った豪族であった。殿ヶ谷の村山館の館主と言われる村山重信は、保元の乱で活躍した金子十郎家忠の8代の孫と言われ、元弘の乱の際に新田義貞の鎌倉攻めの軍勢に加わり討死した。戦国末期の天正年間(1573~92年)には村山土佐守義光が館主で、小田原北条氏に仕え、北条氏滅亡後は帰農したと言う。
村山館は、福正禅寺の南側に広がる平地にあったとされる。宅地化が著しく明確な遺構はないが、館跡の東側には現在でも往時の水堀跡と考えられる水路が流れ、ちょうど水路の部分で道路がクランク状に屈曲しており、虎口の名残りを想起させる。館の背後の丘陵地に当たる福正禅寺境内は、居館に対する詰城であったと考えられており、ここにも明確な遺構はないが、眺望に優れた物見の適地であったことが今でもよく分かる。
詰城とされる福正禅寺境内→
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.768139,139.361851&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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