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姫路城(兵庫県姫路市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_9875.JPG←連立式天守
(2006年7月訪城)
 姫路城は、日本国内に現存する城郭遺構として最大最高の城である。その創築は南北朝時代に遡り、播磨の守護大名赤松円心の次男貞範が1346年に姫山に城を築いた。しかし、それ以前の元弘の乱の頃にも、大塔宮護良親王の令旨を受けて挙兵した円心が、姫山に砦を築いたらしい。赤松貞範は、わずか3年で庄山城を築いて移り、姫路城には家臣の小寺氏を入れて守らせた。1441年の嘉吉の乱で赤松氏は一時滅亡し、播磨は山名宗全の領国となったが、応仁の乱の中で東軍の細川勝元の後援で赤松氏を再興した赤松政則は、播磨から山名氏を追い払って領国を回復した。当初姫路城を本拠としたが、間もなく置塩城を築いて移り、姫路城には旧例に倣って小寺氏を置いた。戦国時代に入ると小寺氏は御着城を築いて移り、姫路城には最初小寺氏の執事八代氏が、後には家老の黒田氏が入った。1577年、織田信長の部将羽柴秀吉が播磨討伐に下向すると、姫路城主黒田官兵衛孝高は、織田・毛利のどちらに付くか迷う周辺諸豪を尻目に率先して臣従し、姫路城を秀吉に献上した。1580年、播磨を平定した秀吉は、信長から播磨一国を与えられ、姫路城に三層の天守を建てて居城とした。尚、秀吉は、黒田孝高を竹中半兵衛重治と並ぶ参謀とし、孝高は播磨平定戦、毛利攻め、そして織田信長横死後の電光石火の反転劇、いわゆる中国大返しにおいて、その才を遺憾なく発揮したことは広く世に知られている。秀吉が信長の後継者の地位を実力でもぎ取ると、姻戚であった木下家定を姫路城主とした。1600年、関ヶ原合戦で覇権を握った徳川家康は、娘婿の池田輝政を姫路城主とし、西国の豊臣恩顧の諸大名に備え、且つ豊臣氏の居城大阪城包囲網の一環として、今に残る壮大な姫路城を築城させた。江戸時代に入ると、姫路城には徳川譜代の松平、本多、榊原各氏が城主となり、最後は酒井氏で明治維新を迎えた。

 姫路城については、多言を要しないだろう。壮大な平山城で、その巧みな縄張りと現存建築物の多さは、国内に残る他の城を圧倒する。世界遺産になるのも当然と言ってよい。有名なのは大天守と3つの小天守から成る連立式天守の威容であるが、姫路城の素晴らしさは、何と言っても往時の城の姿を残しているといってもよいほど、たくさんの建築物が現存していることである。城門は勿論、多門櫓や土塀に至るまで。その様子は、天守から眼下を眺めるとよく分かる。残念ながら現在は平成の大修理の最中で、その眺めもしばらくお預けとなっていると思うが、2年後には再び望むことができるはずである。2006年に初めて行った姫路城は出張のついでに寄ったのだが、とても「ついで」で回りきれるような規模ではなく、内城部分の半分ほどしか回れなかった。2年後の再訪を楽しみにしたい。
天守から見た西ノ丸の遺構群→IMG_9901.JPG


 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.839353/134.694014/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

 ※姫路城外郭についてはこちらこちら
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ノリパ

早く平成の改修も終わって欲しいですね。大天守の姿を楽しみにして待ってます。
by ノリパ (2013-02-03 15:55) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
定期的な大修理は、仕方のない事とはいえ、
城好きにとってはなかなか忍耐力がいりますね。
今はただ、2年後の勇姿を楽しみに、
ガマンガマン、ですね。
by アテンザ23Z (2013-02-03 18:29) 

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