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川中島古戦場(長野県長野市) [その他の史跡巡り]

DSC03603.JPG←一騎打ちの像
 川中島古戦場は、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が正面切って激突した第4次川中島の戦いの主戦場である。武田信玄の信濃侵攻と葛尾城主村上義清の越後亡命によって惹起された甲越両軍の激突は、1553年~64年迄の12年間に5回あったとされている。そのほとんどは両軍にらみ合いに終始していたが、1561年の第4次川中島合戦だけは両軍の精鋭部隊が全面対決する激戦となった。甲陽軍鑑によれば、妻女山に陣を敷いて長期滞陣の構えを見せた謙信に対して、信玄は山本勘助の考案した啄木鳥戦法を採用し、別働隊に妻女山背後から奇襲攻撃を行わせ、押されて妻女山を降りた上杉勢を八幡原で待ち受ける武田勢本軍が迎え撃ち、挟み撃ちにするという作戦であったとされる。しかし奇襲の前夜、海津城から立ち上る多数の炊煙を見た謙信は、武田勢の動きを察知し、夜陰に紛れて密かに妻女山を降り、千曲川を夜間渡渉して武田勢本軍の正面に全軍を布陣した。明朝、八幡原に濃く垂れ込めていた霧が朝日と共に徐々に晴れてくると、両軍は至近距離で対峙しており、鶴翼の陣で備えを固める武田勢に、上杉勢は車懸りの陣で襲いかかった。兵数は、妻女山別働隊に兵を割いた武田勢が不利で、上杉勢の猛攻に押し込まれ、信玄の実弟典厩信繁ら名立たる武田方将帥が討死する大難戦となった。しかしその後、妻女山から戻った別働隊が主戦場の八幡原に到着して上杉勢の背後を襲うと、攻守逆転して上杉勢は撤退を余儀なくされた。この際、上杉謙信は、単騎武田本陣に斬り込んで、武田信玄と直接一騎打ちをしたと言う。

 以上が甲陽軍鑑で伝えられる合戦の概要で、妻女山の地形などを考えると、そのまま甲陽軍鑑の記載を鵜呑みにできるものではないが、八幡原で激戦が行われたことは事実であるらしい。その為、長野市内にはこの戦いにまつわる史跡が多数残されている。夏を中心にそれらの史跡を巡ったが、史跡の詳細については長野市の特設サイト「川中島の戦い」に詳しいので、ここでは一々記載しない。

 信玄が本陣を敷いたとされる場所は、現在八幡原史跡公園となって整備されており、一騎打ちの場面を描いた有名な銅像などが建っている。八幡社の周囲には、低い土塁が残っており、これは信玄本陣の遺構であるとされている。さすがに戦国史上、最も有名な戦いであり、朝早くからここを訪れる人は多い。私が訪れたのが、狙ったわけではないが偶々決戦のあった9月10日近くの日で、合戦の様子を想像するとなかなか感慨深いものがあった。旧暦新暦の違いがあるにせよ、夏の盛りの激戦で、両軍の兵士は汗まみれで、体力的にもさぞキツかっただろうと思う。そして、度重なる両軍の激突は、徒に川中島地方の農村を荒廃させるだけで、結局両軍に何の恩恵ももたらさなかったことは、何とも皮肉という他はない。
武田方本陣跡の土塁→DSC03592.JPG

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.591188/138.186690/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
タグ:古戦場
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