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長沼城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC04172.JPG←南馬出の土塁跡
 長沼城は、甲斐武田氏が千曲川西岸に築いた平城である。その起源は、一説には在地豪族の島津氏が築いた館とも言われる。戦国時代の1557年、北へ北へと信濃攻略を推し進める武田信玄の葛山城攻略によって、島津月下斎は長沼城を捨て、北の大倉城に撤退した。1564年に12年間にわたって行われた川中島合戦が終焉を迎えると、川中島より更に北の飯山・野尻方面へ侵攻した武田氏は、長沼城に城下町を建設し、1568年には重臣の馬場美濃守信房に城を再建させて、海津城とともに川中島地方を支配する重要拠点とした。1582年に武田氏が滅亡すると、上杉景勝と織田信長の家臣森勝蔵との間で長沼城争奪戦が行われ、結局織田方の有に帰したものの、間もなく信長が本能寺で横死し、上杉氏が川中島を制圧して島津忠直を長沼城将に任じた。1598年、上杉氏が会津に移封となると、島津氏も会津に移り、長沼城は豊臣秀吉の直轄領となった後、徳川家康の子松平忠輝の領するところとなり、1616年には佐久間勝之が長沼藩を立藩した。しかし1688年に4代勝茲の時に改易され、そのまま廃城となった。

 長沼城は、千曲川西岸の自然堤防上の微高地を利用して築かれた平城だったと思われるが、千曲川の氾濫で東側は流失し、更に現在は堤防構築や耕地化によって、遺構はほとんど湮滅している。本丸周囲に二ノ丸・三ノ丸を巡らした梯郭式の縄張りで、二ノ丸には南・北・西の三方に丸馬出と三日月堀を構えていたとされている。現在残っているのは、南馬出の土塁の一部と、北三日月堀の一部、二ノ丸外周の中堀の一部ぐらいである。しかし広大な果樹園と化した城址には、各所に案内板が多数設置されている。また外郭(三ノ丸)の外堀も水路となって残っているなど、ある程度往時の城の縄張りを想像することもでき、遺構は少ないが歩いて回ると中々楽しめる。
二ノ丸中堀跡→DSC04192.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.684734/138.274151/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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