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駿府城(静岡県静岡市葵区) [古城めぐり(静岡)]

DSC04674.JPG←櫓台も残る三ノ丸外堀
 駿府城は、徳川家康が築いた平城である。かつてこの地には、駿河の戦国大名今川氏歴代の屋敷、府中館があった。今川氏の人質となっていた若き家康(松平竹千代)は、同じく人質として預けられていた小田原の北条氏康の子北条氏規と共に、この地で成長した。しかし、今川義元が桶狭間で倒れてから8年後の1568年、武田信玄が駿河に侵攻し、府中館を始めとする駿河府中は焦土と化した。その武田氏も1582年に滅亡し、織田信長も本能寺で横死すると、天下の覇権は信長の部将羽柴秀吉(豊臣秀吉)の手に移った。しかし家康は、信長の次男織田信雄と共に小牧・長久手の戦いなどで秀吉と対峙し、容易に秀吉に臣従しようとはしなかった。その緊張が続く最中の1585年、家康は松平家忠に駿府城築城の命を下した。築城中に家康は本拠を駿府に移し、1589年に城は完成した。しかし翌1590年に家康は江戸に移封され、駿府には秀吉の家臣中村一氏が入部した。中村氏は、1600年の関ヶ原合戦で東軍に付き、その軍功によって伯耆米子城に加増移封された。中村氏の後には、家康の家臣内藤信成が駿府城主となったが、将軍職を秀忠に譲った家康は、駿府城を天下普請で拡張し、1607年、隠居城として駿府城に入った。以後、大御所政治の中心地となり、駿府城下は大いに発展した。1616年に家康が没し、その後はその子徳川頼宣、家光の弟忠長が城主を歴任した。忠長以後は城代が置かれたが、駿府城代は大阪城代と並ぶ幕府の重職で、代々幕府の重臣が城主となって幕末まで存続した。

 駿府城は、広大な城域を有した、三重の堀を巡らした環郭式の平城である。堀は、二ノ丸外周の中堀のみが完存し、三ノ丸外周の外堀は東側を除く約2/3が残っている。本丸周囲の内堀は一部発掘復元された以外は埋められており、最も残存状況が悪い。曲輪の周囲は、徳川天下普請で築かれた近世城郭らしく、全て石垣造りで、三ノ丸石垣は上部に更に土塁を盛っている。二ノ丸は、外周防御を意識した三ノ丸の高石垣と比べると、比較的石垣の積み方が少ない様である。ただいずれの石垣も、度々の地震などで崩れている箇所も多いらしく、近代に粗雑に積み直された石垣もかなり散見される。二ノ丸より内部は公園となっており、本丸は他の平城同様陸軍駐屯地時代にほぼ湮滅状態となってしまい、天守台すら完全に失われている。現在、巽(たつみ)櫓・東御門に続き、坤(ひつじさる)櫓が復元建設中である。この他、外郭には大手門枡形や、ビルの合間に四足門の石垣が残るなど、なかなか見所は多い。
大手門の枡形→DSC04660.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.979342/138.383156/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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