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鳥打場古戦場(山形県大蔵村) [その他の史跡巡り]

DSC07272.JPG←夏山塚
 鳥打場古戦場は、最上氏と庄内の武藤氏(後の大宝寺氏)とが戦った古戦場である。最上氏は室町時代末期より北に勢力を推し進め、一族の成沢城主成沢兼義の子、孫次郎満久をこの地に入部させて清水城を築かせた。一方、武藤氏は1563年、庄内3郡を制圧し、その勢いに乗じて最上の鮭延氏をも制圧した。この時、まだ幼かった鮭延秀綱は捕らえられて庄内へ連れ去られた。その後、1565年、武藤勢は再び大軍で最上地方に侵攻し、清水領に迫った。時の清水城主清水義高は知勇兼備の武将として知られ、最上勢の主将としてこれを鳥打場に迎え撃った。義高は、自ら陣頭に立って勇戦奮闘し、一族もよく戦って武藤勢を撃退して清水城防衛に成功したが、義高は流矢に当たって戦死したと言う。江戸時代中期の1763年、義高の200回忌供養の折、村人は義高を偲んでかつての古戦場の戦死の地に夏山塚を築き、今に伝わっている。

 鳥打場古戦場は、清水城の北方わずか2.3kmの距離に位置し、清水城防衛の最前線であったと考えられる。最上川東岸の丘陵地で、清水城主の「御狩場」であったことから「鳥打場」と呼ばれたとされる。現在は夏山塚公園となっており、国道458号線に公園の案内板が出ている。丘陵上の小さな公園には、清水義高を供養した夏山塚が残っており、「清水城主五代 義高公戦死の地」の標柱が建っている。清水義高は、死後200年も経ってから供養塚が築かれるというのは、よほどその遺徳が慕われていたのであろう。公園の眼下には今では平和な田園地帯が広がっており、かつての激戦は時の彼方に過ぎ去っている。
 尚、私事ではあるが、この公園まで来た所でアクシデントが発生し、車のタイヤがパンクしてしまった。久しぶりにJAFのお世話になった史跡巡りとなってしまった。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.717762/140.229911/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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