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薩埵山古戦場(静岡県静岡市清水区) [その他の史跡巡り]

DSC00129.JPG←峠からの景観
 薩埵山古戦場は、東海道の要衝薩埵峠付近を主戦場として展開された戦いである。現在は江戸時代末期の安政の大地震(1854年)によって海岸付近の地盤が隆起し、海岸に道が通っているが、中世においては山中の峠か海沿いを通る「親知らず子知らず」の難所であった。街道を遮る様に山稜が海岸まで迫っている交通の要地である為、度々合戦の舞台となった。

 大きな合戦は二度行われた。一度目は南北朝時代の1351年、足利尊氏・直義兄弟が争った観応の擾乱の中である。尊氏は、1335年の箱根山の合戦以来、弟直義に多くの権限を譲り、幕政を主導させていたが、直義と執事高師直の不和によって、幕府を二分する内訌に発展した。それは、元々の室町幕府政権の二元性(軍権と政権)に根差した対立であった。擾乱の委細はここでは省くが、京都を脱出した直義は、八相山の戦いの後、直義方の足利一門と共に北陸から東下して鎌倉に入った。尊氏は、天下三分の状況を有利に持ち込むべく、南朝と和議を結び直義追討の綸旨を得て、軍勢を率いて東に向かった。尊氏は薩埵山に本陣を構え、一方、直義方は三島に本陣を据え、先鋒の上杉憲顕、石堂義房・頼房父子らが尊氏軍に対峙した。兵力は直義方が優勢であったが、後方より宇都宮氏綱ら尊氏方の大軍が箱根竹之下まで進出すると、直義方は浮き足立ち、総崩れとなった。伊豆山中に逃れた直義は、結局和議を結んで鎌倉の尊氏の元に戻ったが、後に急死した。一説には実兄尊氏による毒殺とも言われるが、真相は闇の中である。
 もう一つの大きな合戦は、戦国時代後期の1569年、武田信玄の駿河侵攻によって生起した戦いである。今川義元亡き後の今川氏の弱体化を見て取った信玄は、1568年12月、甲相駿三国同盟を破棄して駿河に攻め込んだ。今川氏真を駿府から逐ったが、今川氏救援のため駿河に進出した小田原北条氏の軍勢が薩埵山に陣を構え、横山城の武田勢と3ヶ月余りにわたって対峙した。苦境に陥った武田勢は甲斐に敗走し、その後1569年12月、信玄は北条勢が前線拠点としていた蒲原城を落とし、3度目の侵攻でようやく駿河を制圧した。北条勢は蒲原城陥落まで、約1年に渡って薩埵山に陣を構えていたと推測されている。
 この他に、最初に信玄が駿河に侵攻した際、駿府防衛のため今川方の軍勢が薩埵山に布陣して抵抗したとされる。

 薩埵山古戦場は、広義では薩埵峠から数キロに渡って山稜上に展開する陣場群を含むが、ここでは薩埵峠の石碑の建つ街道として記載する。駐車場から700m程南に離れた所に峠の石碑が建ち、展望台が据えられている。幾つもの解説板などが建っていて、その中に古戦場のことを記載したものもある。展望台からは、眼下に東名高速と国道1号線が通る、よく知られた海沿いの絶景が広がっている。本来なら遥かに富士山の雄大な景観を望むことができるのだが、訪問した当日は生憎の雲で富士の姿を望むことができなかった。この景観を望みながら、武将たちは何を思っていたのだろうか。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.065849/138.539129/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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