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持舟城(静岡県静岡市駿河区) [古城めぐり(静岡)]

DSC01803.JPG←大堀切
 持舟城は、用宗城とも言い、今川氏が築いた水軍の拠点である。築城時期は不明であるが、おそらくは天文年間(1532~55年)の頃、花倉の乱に勝利して家督を継承した今川義元が、花沢城の築城と前後して築いたのではないかと思われる。義元の時代には関口刑部少輔親長が在城し、氏真の時代には一宮左兵衛尉元実が城主であったと言われている。この地は駿河湾に面した天然の良港で、今川氏は持舟城を水軍基地とすると共に、西方の日本坂から侵入する敵を防ぐ城砦とした。その戦略的重要性の故に、持舟城は度々激しい合戦の舞台となり、多数の将兵が討死した。1568年、甲相駿三国同盟を破棄して駿河に侵攻した武田信玄は、駿河を制圧すると今川氏の水軍を再編して武田水軍を新たに組織し、駿河先方衆の三浦兵部義鏡が在番し、持舟城を水軍基地として活用した。また水軍の将向井伊賀守政重も持舟城に在駐した。1579年、越後上杉氏の内乱「御館の乱」を巡って、武田勝頼が小田原北条氏と敵対関係に陥ると、徳川家康は北条氏と同盟を結び、軍勢を西駿河海岸部を東進させて持舟城を攻撃した。この戦いで、向井政重・三浦兵部ら30人ほどが討死した。その後は朝比奈駿河守信置が在城した。1582年2月、織田信長の甲斐侵攻に呼応して、徳川勢は当目越えから持舟城を攻撃した。外郭を落とされ、支えかねた信置は持舟城を明け渡し、久能山城に退却した。その後、持舟城は廃城となった。

 持舟城は、比高70m程の城山に築かれている。主郭とニノ郭を大堀切で分断した一城別郭構造の縄張りで、基本的な形状は花沢城に酷似している。また主郭の北西側には腰曲輪が何段も築かれ、その先の堀切がミカン畑の中の小道として残っている。この他、ニノ郭の西側から南側にかけても腰曲輪が多数築かれている様である。ただ、主郭が公園として整備されているものの、それ以外はものすごい薮城で、遺構の確認は困難である。またニノ郭はミカン畑に変貌しているので、無断での進入はできない。また大堀切には、井戸跡の様な大穴が残っている。武田氏滅亡まで運用された城でありながら、武田氏による改修の跡は殆ど無い様で、花沢城と同じ今川氏の縄張りが残っている城の様だ。主郭以外にももう少し整備の手を入れてもらえるとありがたいのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.925032/138.359617/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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