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横地城(静岡県菊川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC04821.JPG←「東の城」(本丸)の腰曲輪群
 横地城は、遠江の豪族横地氏の居城である。横地氏は、八幡太郎源義家の庶長子家長を祖とする名族で、滅亡までの約400年間に渡って当地に武威を振るった。横地氏は、保元の乱で源義朝に従って戦い、1180年の源頼朝の挙兵の際にも参陣し、鎌倉幕府の御家人となった。鎌倉末期の元弘の乱の際には、後醍醐天皇の籠もる笠置城攻めで功を挙げ、南北朝時代になると北朝方として南朝方の井伊氏・天野氏と戦って支配地を広げた。応仁文明の大乱の時には、同族とされる勝間田氏と共に西軍方の遠江守護斯波義廉に属し、東軍の主将細川勝元の指令で遠江に侵攻した駿河守護今川義忠に激しく抵抗した。1476年2月、義忠は500騎を従えて大井川を越え、勝間田城、次いで横地城を攻め落とし、横地秀国・勝間田修理亮両将は討死した。義忠はその凱旋の途次、夜半に塩買坂に差し掛かったところで、横地・勝間田両軍の残党によって襲撃されて討死した。今川氏では、これをきっかけにして義忠後継を巡る争いが起き、これを収めて活躍したのが伊勢宗瑞(北条早雲)であった。成長した今川氏親が家督を継承すると、叔父に当たる宗瑞は氏親の軍師となり、1506年、遠江・三河の反今川勢力を掃討し、横地氏は滅亡し、わずかに残った者達は各地に四散した。

 横地城は、菊川市東部の東西に伸びる比高80m程の丘陵上に築かれた山城である。大きく西の城、中の城、東の城から成る一城別郭の縄張りで、東西400m、南北450mに及ぶ広大な城域を有している。横地城を含む城下遺跡群は「横地氏城館遺跡群」として国指定史跡となっており、城跡はよく整備されている。山上の小さな駐車場から東に向かって歩くと、一騎駆けの土橋の先に横地神社の鎮座した西の城があり、ここが二ノ丸に当たる。周囲に多くの段曲輪や腰曲輪で囲んだ曲輪群で、南側は緩斜面に5段の曲輪が形成され、横堀と土塁で防御している。その南に千畳敷と呼ばれる広場があり、その東に隣接して中の城が築かれている。中の城は、西の城と東の城を繋ぐ出丸で、土塁で囲まれた櫓台的な小郭を頂部に置き、周りに数段の腰曲輪を廻らし、背後に堀切を穿って木戸口を設けている。その先に本丸に当たる東の城がある。東の城はさすがに中核の曲輪群らしく、西の城以上に広い多くの腰曲輪が築かれている。腰曲輪は北西に伸びる尾根上に多数展開し、要所を堀切で分断している。頂部の本丸はそれほどの広さを持たず、詰城的な臨時の曲輪であったのだろう。その西側背後は堀切となり、更に一騎駆けの土橋となって、搦手口を防御している。この他に西の城から北西に500m程離れた位置に「詰城」の標柱が建っていて、標柱の横は茶畑となり、その西側の高台が詰城だったものと推測されるが、明確な曲輪にはなっておらず、場所がよくわからない。横地城は、堀切の規模や多くの段曲輪など、勝間田城によく似た雰囲気の城で、室町期の山城の特徴をよく残している。ただ惜しむらくは、車道建設で堀切などの遺構が結構破壊されてしまっている。
「西の城」(二ノ丸)の横堀→DSC04735.JPG
DSC04844.JPG←東の城北西尾根の堀切と曲輪群
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.728176/138.117746/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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