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高橋ノ城(静岡県御前崎市) [古城めぐり(静岡)]

DSC07829.JPG←堀切と主郭虎口
 高橋ノ城は、「天ヶ谷の城平」とも呼ばれ、歴史不詳の城である。室町時代後期から戦国時代にかけての頃に、この地の在地領主(高橋氏か)が築いた城と考えられている。1545年に今川義元が、高橋ノ城の北に位置する竜源寺に宛てた文書に、この地の地頭高橋左近将監の名があり、この城との関係が指摘されている。また縄張り面からは、武田氏による改修の可能性も推測されている。

 高橋ノ城は、釜原城の尾根続きの比高40m程の山上に築かれた城である。釜原城からは650m程しか離れておらず、新野新城とも新野川を挟んで1.1km程しか離れていないが、両城との関係は不明で、縄張り面でも類似性は少ない。かなり広大な城域を有した城で、現地解説板の縄張図では、土塁で囲まれた楕円形の主郭と三角形状のニノ郭から構成されているとしているが、実際には主郭の更に北のピークにも出丸が存在し、更にその北の主郭から300mも離れた所にも遺構が存在する。新野地区の神明神社の150m西にある登り口から北へと登って行くと、茶畑の広がる広い平地に至り、その西端から城跡への尾根道に繋がるが、この部分には櫓台状の土壇と二重堀切、腰曲輪が確認できる。この先の尾根道にも、途中に2~3本の明確な堀切が確認できる。前述の北のピークの出丸は、古墳(天ヶ谷1号墳)らしいのだが、ピーク上に明確な削平跡があり、東の尾根には堀切が穿たれ、南にも大空堀らしい窪地が構築されている。この出丸は位置的に古墳を利用した北の物見台であったと考えられる。ここから主郭に向かって更に南下すると、主郭手前には深い谷戸が天然の大空堀となって登城道を防御しており、そこからの登道には2本の堀切があって主郭虎口に通じている。主郭は低い土塁で囲繞された曲輪で、西側には腰曲輪に通じる虎口があり、そこを降ると横堀状の腰曲輪が築かれている。主郭の南側には枡形虎口が築かれ、二重堀切を介してニノ郭に繋がっている。ニノ郭は虎口に櫓台が備えられ、曲輪内部は耕作放棄地でガサ藪となっている。ニノ郭南端にも櫓台を備えた枡形虎口が構築され、そこから派生する尾根には東西にそれぞれ堀切が穿たれ、特に西尾根には二重堀切で防御を厳重にしている。またニノ郭東端にも堀切が穿たれている。以上が遺構の概要である。

 高橋ノ城は、堀切と連携させた枡形虎口など、この付近の城では「八幡平の城」と並ぶ技巧的な縄張りで、他の城とは一線を画しており、確かに武田氏の関連が強く類推される良好な遺構である。
北出丸東側の堀切→DSC07801.JPG
DSC07841.JPG←主郭西側の横堀
櫓台を備えたニノ郭搦手虎口→DSC07920.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.677582/138.109421/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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