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宇都宮城 その1(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSC06751.JPG←唯一の現存遺構、松ヶ峰土塁
(2006年8月、2009年1月、2010年11月、2011年10月訪城)
 宇都宮城は、下野の名族宇都宮氏歴代の居城である。宇都宮氏は、平安時代後期に曾祖藤原宗円が下野に入部し、下野一宮の二荒山神社の別当を兼帯したことに始まる(「宇都宮」の名は「一宮」の転訛とも言われる)。3代朝綱の時には宇都宮氏を称しており、源頼朝に仕えて鎌倉幕府の御家人となり関東有数の豪族に成長した。一族は広く分封され、常陸小田氏の祖となった八田知家を始め、笠間氏、塩谷氏、武茂氏、横田氏、多功氏、西方氏など下野から常陸にまたがる地域に一族が蟠踞した。宇都宮氏は文化的にも優れ、鎌倉期の5代頼綱は謀反の疑いを晴らすため出家して蓮生と称したが、頼綱は藤原定家とも親交があり、小倉百人一首の成立にも関わった。また宇都宮一族の和歌を中心に、『新○(まる)和歌集』が編纂されるなど、高い文化水準にあった。9代公綱は、麾下の強力な軍団「紀清両党」(紀姓の益子氏と清原姓の芳賀氏をまとめてこう呼んだ)を率い、元弘の乱では楠木正成との戦いで有名を馳せ、その後、南朝方として活動したことは『太平記』に名高い。その子10代氏綱は重臣芳賀禅可の後楯を得て父公綱と袂を分かち、宇都宮城を押さえて北朝方として活動した。南朝の主柱北畠親房は、常陸小田城に入って関東南朝方を率いて勢力の再建に努め、配下の春日顕国率いる南朝軍は最盛期には下野まで進撃し、1341年に芳賀氏の飛山城を攻略して、鬼怒川を境に宇都宮城と対峙した。この頃、宇都宮城は北朝方の拠点として重要な位置を占めていたのであろう。1351年の観応の擾乱の際には、駿河の要衝薩埵山の戦いにおいて、宇都宮氏綱・芳賀禅可らは大軍を率いて足利直義の軍に背後から迫って潰走させ、足利尊氏の勝利に大きく貢献した。その後鎌倉府の体制を刷新した尊氏は、宇都宮氏を上野・越後の守護とし、芳賀氏をその守護代に任じて、両者を鎌倉府の中核に据えた「薩埵山体制」を構築した。室町時代になると、宇都宮氏と争っていた下野南部の豪族小山義政が、1380年に宇都宮領に侵攻し、これを迎撃した宇都宮基綱は、藻原の戦いで激戦の末討死する事件が発生した。これがきっかけとなって小山義政の乱が生起した。この後、宇都宮氏は、室町時代を通して小山氏や那須氏、佐竹氏ら周辺諸豪と抗争を続け、また内部では重臣の芳賀氏や壬生氏と抗争し、家中争乱がうち続いた。1549年には、宇都宮尚綱は那須方の倉ヶ崎城を奇襲しようと軍を進めたが、事前に察知されてかえって待ち伏せに遭い、五月女坂での激戦の最中、尚綱は那須氏の家臣鮎ヶ瀬弥五郎の放った矢に当たって討死してしまった。この敗戦の後、芳賀高定によって子の広綱が宇都宮氏当主に据えられたが、弱体化は甚だしく、一時、宇都宮城は壬生氏に占拠されてしまった。この戦国時代後期には、関八州制圧を目指す小田原北条氏の勢力が北進を続け、広綱の子国綱の時には、叔父に当たる佐竹義重と結んで北条氏に抵抗した。しかし1582年に甲斐武田氏が滅亡し、更に織田信長が本能寺で倒れ、上野の政治権力が空白となると、北関東にはもはや北条氏の勢威に正面から対抗できる勢力はなく、北条勢に宇都宮城下を焼き討ちされる程であった。ここに至って、国綱は新たに巨大山城の多気山城を築いて居城を移し、要害に拠って北条氏に抵抗した。こうして風前の灯火であった宇都宮氏だが、1590年に小田原の役で北条氏が滅亡すると、豊臣秀吉から所領を安堵された。しかしそれも束の間、1597年に突如改易され、大名としての宇都宮氏は滅亡した。

 宇都宮氏が改易された後も城は存続し、蒲生氏、奥平氏と城主が変遷した後、江戸時代初期には徳川家康の懐刀であった本多正純の居城となり、正純は宇都宮城を、後に関東七名城の一つに讃えられる近世城郭として整備した。大御所政治において大権を振るっていた正純は、家康の死後、2代将軍秀忠のもとで不遇の時代を迎え、出羽最上氏改易の山形城受取に下向した際に、そのまま当地で改易された。以後、徳川譜代の大名が目まぐるしく入れ替わり、1774年からは戸田氏が城主となって幕末に至った。戊辰戦争においては、宇都宮城は旧幕府軍と新政府軍の激しい攻防の場となり、新撰組副長の土方歳三が奮戦したが旧幕府軍は敗走し、宇都宮城は灰燼と帰した。

 宇都宮城は、東西1km程にも及ぶ広大な平城であったが、現在は市街化によって遺構はほとんど湮滅している。本丸を中心にして、二ノ丸、三ノ丸、外郭を巡らした輪郭式の縄張りであったが、現在では道路にすらほとんどその形を留めていない。近年復元された本丸も、鉄筋コンクリート製の土塁に、復元櫓を立ち上げたもので、興冷めすること甚だしい。しかしこれは、多分に宇都宮市の建築指導課のせいであるらしい。というのも、新規建物の基礎は鉄筋コンクリートでないといけないと言う建築基準法を根拠に、掻き上げ土塁を認めなかったらしいのである。一方、国土変遷アーカイブの昭和20年代の航空写真と、google Mapの航空写真を見比べると、市役所の南の広い駐車場が堀跡であることなどがわかる。宇都宮市のシンボルでもある大銀杏は、かつての三ノ丸土塁の立っていたものである。また宇都宮城唯一の現存遺構が松ヶ峰土塁で、市立一条中の北側にその一部が残っている。その他は、城の名残を思わせるものは皆無で、かつての名城は時の彼方に消えてしまった。昭和30年代や40年代までは、本丸・二ノ丸の土塁や三ノ丸の外堀などが残っていたものを、一度徹底的に破壊して、その後わざわざ本丸だけ作り直したことは、宇都宮の歴代市政の史跡保護に対する見識の無さを露呈している(※)。

 (※)…私は宇都宮市民なので、あえて厳しい意見を書いています。
外堀跡の駐車場→20090104153529.jpg

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.554585/139.885536/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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