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護応土城(静岡県川根本町) [古城めぐり(静岡)]

DSC00416.JPG←クランクする切通し状の古道
 護応土城は、南北朝時代に駿河南朝方の最後の拠点となった徳山城の支城である。1353年、在地土豪の鴇(土岐)氏は本城の徳山城を中心として駿河山間部に立て籠もった。将軍足利尊氏の命を受けて今川範氏はこれを討伐し、援将伊達景宗は先鋒として発向し、まず出陣の翌日の2月11日、早くも萩多和城を落とし、尾根伝いに洗沢に抜け、13日には護応土城を攻め落とし、徳山城に迫ったと伝えられている。尚、範氏が景宗に与えた感状によれば、護応土城が徳山城を守る「一の木戸」としての重要な役割を持っていたとされる。
 護応土城は、富士城地区の標高955mの山上に築かれている。ここは尾根伝いに南に降ると、高山を経由して徳山城が築かれた無双連山に至る交通の要地で、山頂から南東と南西に伸びる尾根上には古道が現在でも残っている。この古道は、途中で屈曲しており、特に南西尾根ではクランクした切り通しになっており、入口付近は枡形状の空間がある。また、南東尾根では堀切状の切り通しも確認できる。この他、一部は城戸口らしい地形も確認できる。山頂は主郭とされるが(「本丸」の標識がある)ほとんど自然地形で、周囲の緩斜面もほとんど自然地形に近い。一部に平場があるが、かつては畑があったらしいので俄に遺構とは判断できない。いずれにしても明確な遺構には乏しいが、古道が屈曲して枡形状や堀切状になっており、古道を押さえる砦として機能した様である。尚、3月の訪城時には「本丸」「壕」の小さな標識が建っていたが、城址として整備中らしい。
堀切状の古道→DSC00427.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.093788/138.188514/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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らんまる

静岡県の遺跡への取り組みはいつもながら感心します。特に浜松市は素晴らしい。長野県は完全に後進国ですネ(汗)

それでも先日攻め込んだ飯田市の西平城は、これから本格的な整備がされるようです。松尾小笠原氏はさすがに下伊那で戦国時代を最後まで生き残っただけあって、縄張りも先進的な工夫があり素晴らしいものでした。信州へお越しの際のお勧めの城ですよ。
by らんまる (2013-11-01 19:53) 

アテンザ23Z

>らんまるさん
こんばんは。ご無沙汰しております。
静岡は、史跡(城跡)整備に熱心で、本当に素晴らしいと思います。
でも長野もそれほど負けてないと思うのですが・・・。
長野が落第だと、関東諸県は「お話以前の問題」になっちゃいますよ~。

長野南部はいつの攻略になるか、まだ全くわからないのですが、
ぜひ行ってみたいですね、西平城。
今後も色々と情報を教えて下さい。
by アテンザ23Z (2013-11-06 18:58) 

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