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浜松城(静岡県浜松市中区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00681.JPG←搦手虎口と復興天守
 浜松城は、遠江を押さえるために徳川家康が新造した城である。家康は、この城を居城とした14年の間に、三方ヶ原の大敗の艱難を乗り越え、遠江を甲斐武田氏から奪還し、織田信長と連携して武田氏を滅ぼし、その遺領を併合して駿河・遠江・三河・甲斐・信濃5ヶ国を領する大大名となった。それ故、浜松城は出世城としても知られている。
 浜松城の前身として、この地には曳馬城が築かれていた。1568年12月、徳川家康は武田信玄と連携して遠江の今川領に侵攻し、翌69年には遠江をほぼ制圧し、遠江への本拠地の移動を計画した。当初国府のあった見付に城之崎城を築こうとしたが途中で取り止め、1570年に曳馬城に移り、曳馬城を一郭として取り込んだ形で新たに浜松城を築城した。この時、それまでの居城であった岡崎城は、嫡子信康に譲り渡された。その後浜松城を拠点として、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦い等多くの戦いに赴き、前述の通り5ヶ国を領する大大名にのし上がった。そして浜松では領国統治に於いて西に偏することから、1586年に駿府城に居城を移したが、それまでの14年間、浜松城を居城とした。駿府移城後は、家康の家臣菅沼定政が浜松城主となり、1590年に家康が関東に移封となると、豊臣秀吉の家臣堀尾吉晴が浜松城主となった。関ヶ原合戦の戦功により、堀尾氏が出雲松江に移封となると、その後は徳川氏の譜代大名が相次いで城主となった。江戸時代には、東照大権現縁の城として岡崎城と並んで意識され、幕閣への登竜門となる「出世城」となって幕末まで存続した。

 浜松城は、三方原台地の東南端に築かれた平山城である。西から東に傾斜する斜面に、天守曲輪・本丸・二ノ丸・三ノ丸を並べた梯郭式の縄張りであったが、現在は市街化で遺構の大半が湮滅し、わずかに天守曲輪と本丸付近が遺構を残すだけとなっている。それでも天守曲輪と本丸の周囲には、荒々しい野面積みの石垣がよく残り、復興天守が華を添えている。また現在は天守曲輪大手に当たる天守門の復元工事が進められている。こういう近世城郭だと、どうしても天守に目が移りがちであるが、曲輪外周に残る野面積みの石垣はなかなか豪壮な姿を残しており、必見の遺構である。ただ残念なのは、三ノ丸や大手門など、湮滅した遺構の標柱は全くなく、城への市民の愛着が感じられないのはちょっと残念に感じた。
本丸外周の櫓台跡→DSC00761.JPG
DSC00766.JPG←天守曲輪の石垣
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.711773/137.724878/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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