須加城(埼玉県行田市) [古城めぐり(埼玉)]
←城跡とされる長光寺
須加城は、『吾妻鏡』に記載される御家人、須賀弥太郎の居城と言われている。須賀氏は、1221年の承久の乱の際、弥太郎が宇治橋合戦で活躍し、その後、1238年の将軍随兵に須賀左衛門太郎の名が記されている。南北朝時代には、須賀氏は足利氏の家臣となったことが知られている。室町時代の1440年には、前年の永享の乱で自刃した足利持氏の外戚、一色伊予守持家が須賀土佐守入道の守る須加城を攻め、焼き払った。戦国時代には、須加城を巡って古河公方と小田原北条氏の合戦が行われた。戦国末期には須賀氏は忍城主成田氏に属したらしく、1590年の小田原の役で開城した忍城の武士の中に須賀修理亮の名が見える。
須加城は、行田市域の北辺、利根川を背にした長光寺から須加小学校にかけての一帯に築かれていたと考えられている。寺の境内は平地だが、小学校は5m程の高さの高台になっており、ニノ郭と主郭の関係にあった可能性があるが、どうであろうか?
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.186537/139.482883/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
須加城は、『吾妻鏡』に記載される御家人、須賀弥太郎の居城と言われている。須賀氏は、1221年の承久の乱の際、弥太郎が宇治橋合戦で活躍し、その後、1238年の将軍随兵に須賀左衛門太郎の名が記されている。南北朝時代には、須賀氏は足利氏の家臣となったことが知られている。室町時代の1440年には、前年の永享の乱で自刃した足利持氏の外戚、一色伊予守持家が須賀土佐守入道の守る須加城を攻め、焼き払った。戦国時代には、須加城を巡って古河公方と小田原北条氏の合戦が行われた。戦国末期には須賀氏は忍城主成田氏に属したらしく、1590年の小田原の役で開城した忍城の武士の中に須賀修理亮の名が見える。
須加城は、行田市域の北辺、利根川を背にした長光寺から須加小学校にかけての一帯に築かれていたと考えられている。寺の境内は平地だが、小学校は5m程の高さの高台になっており、ニノ郭と主郭の関係にあった可能性があるが、どうであろうか?
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.186537/139.482883/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
須賀弥太郎?? 須加弥太郎ですね◎昔からここは・・・
↑
by NO NAME (2015-07-10 03:17)
>NO NAMEさん
う~ん、各種文献では「須賀」、現地石碑裏の解説文には「須加」とあって、どちらが正なんでしょう?とりあえずここでは「須賀」としてあります。何か、須加を正とできる典拠があればご教示下さい。
by アテンザ23Z (2015-07-10 18:19)