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武田勝頼滅亡地(山梨県甲州市) [その他の史跡巡り]

DSC08301.JPG←景徳院に残る勝頼達の墓
 武田勝頼は、武田信玄の4男で、信玄死後の武田氏を率いた。「率いた」と言うのは、家督は継いでいなかった可能性があるからである。信玄が今際の際に家督を継がせたのは、孫に当たる勝頼の子信勝で、勝頼は信勝が元服するまでの後見に過ぎなかったという説がある。それは「勝頼」の名乗りから見ても説得力がある。「頼」の字は勝頼の母方諏訪氏の通字で、甲斐武田氏の通字「信」は使っていないからである。そうした微妙な立場上からの劣等感があったのか、勝頼は父信玄の喪が明けてから、積極的な外征策に転じる。戦巧者の信玄でさえ落とせなかったとされる遠江の要衝高天神城を落とし、西へ西へと兵を進めた。しかし1576年、長篠設楽ヶ原で織田・徳川連合軍を強攻して致命的な大敗を喫し、信玄以来の多くの重臣を失い、武田氏の勢力拡張は終わりを告げた。1578年の越後上杉氏の内乱「御館の乱」では、景勝・景虎両者の和睦仲介に失敗し、景勝と和睦したことで景虎の敗北を招いた。景虎は北条氏政の実弟であったため、景虎の滅亡により小田原北条氏との同盟関係は破綻し、勝頼は上杉氏との同盟を結んだ。一方の北条氏は、西の徳川家康と同盟し、駿河・遠江において武田領を東西から挟撃する態勢を取った。勝頼は、戦場では勇猛な武将であったが、政略は稚拙であったらしい。殊に北条・徳川からの挟撃を許した外交の失敗は、武田氏の命運に深刻な事態をもたらした。西から徳川が攻めてくれば出撃してこれを撃退したが、すると今後は東から北条が攻めてくる。結局字義通り東奔西走して両軍を追い払うのに手一杯となり、国内は疲弊するばかりとなった。そして1582年、木曽義昌の武田氏からの離反をきっかけとして、織田軍による甲州征伐が開始された。信長の嫡子信忠と滝川一益を先鋒とした織田軍は伊那谷を進撃し、徹底抗戦した高遠城を除いて武田方は総崩れとなった。勝頼は領国の崩壊を前に軍議を開き、新たに居城としたばかりの新府城を自焼し、小山田信茂の岩殿城に落ち延びることに決した。しかし笹子峠まで来た所で信茂の裏切りを知り、やむなく天目山に籠もって最後の防戦をすることとなった。この時の勝頼主従は、わずか50名ほどであったと言われる。しかし田野で滝川一益の軍勢に捕捉され、秋山紀伊守光継・阿部加賀守・小宮山内膳正友信・土屋惣蔵昌恒らが迫り来る織田軍を激闘して防ぐ中、勝頼とその妻北条夫人、嫡子信勝は田野で自刃し、ここに新羅三郎義光以来の源氏の名門甲斐武田氏は滅亡した。

 ぶどうの産地として有名な勝沼より東、国道20号線から県道218号線にかけて、勝頼の最後の足跡が点々と記されている。勝頼主従が投宿し、縁者の理慶尼がその最後の有り様を語り継いだとされる大善寺や、四郎作古戦場・鳥居畑古戦場・土屋惣蔵片手切などである。そして景徳院には勝頼・北条夫人・信勝の墓があり、その遺骸を葬った場所に建てられた没頭地蔵や、自刃した生害石が残っている。これらの点在する史跡を西から辿ると、勝頼主従が徐々に山間の地に追い詰められていったことがよくわかり、いやが上にも滅亡の悲劇性が増してくる。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.641202/138.803469/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
    (景徳院)
タグ:墓所
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