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関根城(山形県鶴岡市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1957.JPG←主郭群背後の二重堀切
 関根城は、最上軍が上杉軍の庄内侵攻に対抗した城である。戦国末期、庄内の大宝寺氏(武藤氏)を攻め滅ぼして、一旦は庄内を手中に収めた最上義光であったが、義光に滅ぼされた大宝寺義興の養子義勝の実父本庄繁長は、1588年、上杉景勝の意を受けて庄内に侵攻した。この時最上勢は、関根城に立て籠もって防戦したが落城し、城主樋野左衛門尉は討死した。こうして最上方の諸城を撃破した本庄繁長・大宝寺義勝親子の率いる上杉軍は、中山玄蕃・東禅寺筑前守率いる最上軍と十五里ヶ原で激突し、本庄軍の猛攻の前に最上軍は大敗を喫した。続く黒瀬川合戦でも最上軍は大敗して庄内より撤退、最上義光は完全に庄内を失う事となった。

 関根城は、大山川西岸にそびえる標高252.7m、比高173mの山上に築かれた城である。東麓の関根集落背後の台地上に居館跡と推定される3段程の平場があり、最上段南側には虎口の開いた土塁が築かれている。ここから尾根筋を藪と格闘しながら登って行くと、途中にも小さな枡形状の木戸口や小郭があり、堀切・腰曲輪を経由して城域北端のニノ郭群に到達する。ニノ郭はほぼ方形の曲輪らしく、外周に腰曲輪が取り巻いており、北西尾根に1本の堀切が、また北東尾根には三重堀切が穿たれている。この三重堀切は結構規模が大きく、この方面の尾根筋を厳重に遮断している。北端のニノ郭から最上部の主郭までは段曲輪群が連なり、かなり南北に長い城域となっている。ただ主郭も含めていずれの曲輪も小さな平場で、多くの兵を籠められる規模ではない。主郭の背後にも細尾根上の曲輪が続き、大きな二重堀切が穿たれている。この堀切は、中間に低い土塁状の阻塞を設けた山形に多い形状で、規模は大きいが切岸の傾斜が緩く、鋭さは余り感じさせない。この背後にも曲輪が続く様だが、薮が密生しており、未踏査である。全体に藪がひどく、遺構の確認が大変である。尾根筋は堀切で防御しているものの、ひたすら段曲輪を連ねただけの縄張りで、戦国末期に戦場となった城にしては遺構に物足りなさを感じる。
主郭→IMG_1945.JPG
IMG_1907.JPG←ニノ郭北東尾根の三重堀切の一部
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.666335/139.735970/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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