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栗楯(山形県鶴岡市) [古城めぐり(山形)]

IMG_2096.JPG←「栗楯」の曲輪群と堀切の遠望
 栗楯は、庄内での合戦において度々戦場となり落城の憂き目を見た城である。前方に築かれた出張坂城と共に、両城一体となって機能したと考えられている。1571年、藤島城主土佐林氏は、尾浦城主大宝寺(武藤)義氏と対立して攻撃され、土佐林氏の一党が出張坂城・栗楯に立て籠もって全滅したと言う。その後、大宝寺氏の持ち城となり、義氏の養子義勝が佐藤備中守と共に出張坂城・栗楯に在城した。1580年に義氏が最上義光の後援を受けた前森蔵人(東禅寺筑前守義長)に攻め滅ぼされて、庄内が最上氏に制圧されると、義勝は実父本庄繁長のいる越後に逃れた。1588年、上杉景勝の意を受けた繁長は、義勝と共に庄内に大挙侵攻し、最上勢に打ち勝って庄内を制圧して上杉領に併合した。1600年の慶長出羽合戦では、板垣主膳・田沢氏が守った栗楯は、上杉軍敗走の後、余勢を駆って庄内に侵攻した最上軍によって攻め落とされた。

 栗楯は、標高60m、比高40mの丘陵上に築かれた城である。山頂部を「楯の山」と言い、西に伸びる尾根先端部の遺構群を「栗楯」と呼ぶとされる。しかしそれ以外にも、堀切で分断された尾根毎に曲輪群が展開し、大きく4つ程の区域に分かれていた様である。この内、東の出丸には峯龍神社があり、北西の出丸には月山神社が鎮座している。神社付近だけは薮が切り払われて遺構が確認でき、峯龍神社の手前には段曲輪や浅い堀切が確認できる。しかしそれ以外は高藪が密生しており、とてもじゃないが突入出来る状態ではなく、踏査は断念した。それでも西尾根の「栗楯」部分の曲輪や堀切、また主郭の「楯の山」と東出丸とを分断する大堀切が遠目に見え、朧げながら縄張りの雰囲気が掴める。住宅地に近い里山なので、もう少し手入れしてもらえるとありがたいのだが。
「楯の山」~東出丸間の大堀切→IMG_2095.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.714222/139.764787/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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