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出張坂城(山形県鶴岡市) [古城めぐり(山形)]

IMG_2108.JPG←わずかに残る小丘
 出張坂城は、清水城とも言い、庄内平野と越後を結ぶ街道の出入口に位置する要衝である。背後の丘陵上に栗楯を置き、両城一体となって機能したと考えられている。出張坂城の北方4kmには尾浦城が位置し、西方5kmに大宝寺城(鶴ヶ岡城)があり、重要な位置を占めていた。その為度々合戦の舞台となった。出張坂城は古くからあったと推測されているが、本格的に整備されたのは大宝寺(武藤)義氏の時と考えられている。1571年、藤島城主土佐林氏は、尾浦城主大宝寺義氏と対立して攻撃され、土佐林氏の一党が出張坂城・栗楯に立て籠もって全滅したと言う。その後、大宝寺氏の持ち城となり、義氏の養子義勝が佐藤備中守と共に出張坂城に在城した。1580年に義氏が最上義光の後援を受けた前森蔵人(東禅寺筑前守義長)に攻め滅ぼされて、庄内が最上氏に制圧されると、義勝は実父本庄繁長のいる越後に逃れた。1588年、上杉景勝の意を受けた繁長は、義勝と共に庄内に大挙侵攻し、最上勢に打ち勝って庄内を制圧して上杉領に併合した。1600年の慶長出羽合戦では、大滝八左衛門・佐藤備中守が守る出張坂城は、上杉軍敗走の後、余勢を駆って庄内に侵攻した最上勢によって攻め落とされた。その後、最上氏の持ち城となったが、1615年の一国一城令で廃城となった。

 出張坂城は、庄内平野に突き出た丘陵上の城であったが、現在は国道7号線が貫通し、鶴岡鉄鋼団地に変貌しており、地形はもはや原型を留めないほどに改変されている。国土地理院・空中写真閲覧サービスの昭和20年代初頭の航空写真を見ると、往時は起伏のある丘陵地だったらしく、先端部に主郭があったらしい。現在では、国道の北側にわずかに削り残された小丘が残るだけである。

お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.718416/139.768636/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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