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笹子城(千葉県木更津市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_7939.JPG←城中最大の堀切
 笹子城は、真里谷武田氏の支城である。伝承では、文明年間(1469~86年)に真里谷武田信興が、真里谷城の支城として築城したとされる。その後、真偽は明確ではないが、『笹子落草紙』『中尾落草紙』によると、1543年に真里谷武田氏家中で二度目の内訌が生じたとされ、笹子城が内紛の場として登場する。即ち、真里谷武田信隆は家臣の堀内氏から弟の笹子城主武田信茂に謀叛の兆候があるとの讒言を受け、後藤兵庫助・鶴見五郎に笹子城を急襲させ、信茂を討ち取った。その後、鶴見氏が笹子城主となったが、間もなく後藤氏との間で紛争が起こり、真里谷武田信秋と共に後藤氏を攻撃したが、後藤氏は大多喜城主武田朝信や小田原の北条氏康の援軍を得て、逆に笹子城を攻めて鶴見氏を攻め滅ぼした。後藤氏は中尾城主となり、家臣に笹子城を守らせたが、その後、家臣の鶴見五郎を殺された武田信秋は、安房の里見義尭に依頼してその属将正木時茂らと共に逆襲し、中尾城と笹子城を攻め落とし後藤氏を敗死させたと言う。

 笹子城は、中尾城と同様、館山道木更津JCTに程近い比高50m程の南北に伸びた丘陵地に築かれた城である。縄張りも中尾城と似ており、直線連郭式の縄張りを基本としており、曲輪間を堀切で分断している。先端部に当たる北郭が最も大きな曲輪だが、藪化しており、曲輪内の段差や周囲の腰曲輪が確認できる程度である。この北郭の北西端は館山道の建設で破壊されている。北郭とニノ郭の間は車道に変貌した大堀切となっている。ニノ郭は数段の曲輪群と東に土橋を介して伸びた出曲輪で構成されており、背後に2本の堀切を穿っている。その南の主郭は、前面に堀切で区画され土橋で連結された馬出し状の小郭を置き、櫓台状の土壇や背後に土塁を築いている。また主郭にだけ、東側下方に横堀による側面防御が施されている。この南にも堀切を介して曲輪群が続くが、竹薮がひどい。全部で9本もの堀切で区画された城であるが、規模の大きなものは2本ぐらいで、他は規模が小さい。またいずれの堀切も薬研堀であるが鋭さに欠け、縄張りの技巧性も乏しいことから、戦国末期の遺構とは考え難く、戦国中期には廃城となったという伝承が正しい様に感じられる。尚、途中に「立入禁止」と立て札が建てられた部分があるので、遺構踏査には注意が必要である。
主郭東側の横堀→IMG_7933.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.378401/139.988878/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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