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佐是城(千葉県市原市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_8972.JPG←ニノ郭南の横堀状搦手道
 佐是城は、真里谷武田氏の支城である。伝承では元々の創築は、鎌倉時代に佐是禅師円阿が館を構えたとされるが定かではない。真里谷武田信興の弟三郎国信が文明年間(1469~86年)頃にこの地に分封され、佐是城を築いた(現地解説板では天文年間(1532~55年)とされるが、時代的に合わない為当方にて修正)。その後、国信の子孫は、1552年の椎津合戦で籠城軍と参陣し討死したと伝えられる。その後の佐是城主武田氏の事績は不明であるが、現在残る遺構からは、その後も城は改修されたと考えられている。

 佐是城は、この地域では珍しく河岸段丘を利用して築かれた崖端城である。主郭のすぐ東は曲流する養老川が刻んだ断崖となっている。かなり広い城域を有した城で、竹林となった主郭・ニノ郭は遺構がほぼ完存している。主郭の北東には隅櫓台と虎口が築かれ、北側の腰曲輪へと繋がっている。主郭とニノ郭の間は堀で分断され、東端に土橋が掛かっている。ニノ郭は東縁部に低土塁が築かれ、南端に隅櫓台が置かれている。その南下には横堀状の搦手道が通り、外側を土塁で防御している。丁度、真里谷城三ノ郭北側の横堀状大手道と同じ構造で、虎口も残っている。ニノ郭の西には三ノ郭があり、やはり堀で分断されている。三ノ郭は現在畑に変貌しており、南の外郭との間を分断していた堀は、わずかに低地の畑となって名残を残し、堀沿いの土塁のみわずかに残っている。外郭東側にも土塁が残り、南の大手には二重枡形が民家の入口に見事に残っている。この他にも主郭の北に、谷戸を挟んで三角形状の北ノ郭があり、ここには妙性院が建っている。北ノ郭外周の谷戸は「内堀」とされ、天然の深く大きな堀となって、城の主要部を隔絶している。しかしこの内堀の南部分は埋め立てられてしまっており、地形が改変されてしまっている。更に北の光福寺のある台地も外郭だったらしく、境内に土塁や虎口跡が残っている。この付近は古墳も多数散在している。一部地形の改変があるものの、全体としては遺構がよく残っており、これ以上の破壊が進まないよう、保存の手立てを講じて欲しいものである。
三ノ郭の堀跡→IMG_8991.JPG
IMG_9001.JPG←民家に残る大手枡形
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.399985/140.128339/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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